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東京地方裁判所 昭和44年(行ウ)268号 判決

原告 雨宮和夫

被告 東京教育大学長 東京教育大学理学部長

訴訟代理人 堀内昭三 外六名

主文

原告の請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

一、原告訴訟代理人は、「被告理学部長が原告に対し昭和四四年四月三〇日付でした無期停学処分は無効であることを確認する。被告学長が原告に対し同年一〇月三一日付でした放学処分を取消す。訴訟費用は被告らの負担とする。」との判決を求め、その請求の原因として、

原告は、昭和四三年四月一日東京教育大学理学部に入学し、同年六月一日から昭和四四年一二月五日まで理学部学生自治会副委員長、同年六月二一日からは「全学集会開催をめざす全学連絡会議」の副議長の地位にあり、また、被告学長宮島龍興は、昭和四四年一月一七日から昭和四五年三月二日までの間学長事務取扱いの職にあつた者であるが、原告は、昭和四四年四月三〇日被告理学部長により、「昭和四三年九月二一日から五か月間の長きにわたり『ストライキ』と称して教授会の再三にわたる警告にもかかわらず、教授会構成員が研究室ならびに講義室に立ち入ることを原告及びその指揮する多数の学生が威力で阻止し、よつてその研究教育活動を妨害した」ことが学則五八条所定の懲戒事由たる学生の本分に違背する行為に該当するとして無期停学処分に、次いで、同年一〇月三一日被告学長(当時は学長事務取扱い)により、「補導教官の補導・警告に応ずることなく、一部学生の先導となり、本学の規則に反する行為を繰り返したこと、同月一五日停学中であるにもかかわらず、自ら自治会の責任者であると宣言して、理学部の一部学生とともに東京大学農学部に赴き、同大学当局者の禁止、説得を無視して入構し、集会の中止・解散命令にそむいて本大学理学部学生大会と称する会合を強行したこと」を理由として放学処分に処せられた。

しかし、右懲戒処分は、いずれも、以下述べるごとく、東京教育大学のいわゆる「筑波移転」を強行するためにとられた、学生の正当な自治活動に対する一連の弾圧措置であつて、憲法に違反し若しくは裁量権の踰越、濫用にわたるものである。すなわち、(「筑波移転」問題とその審議の違法性)

(一)  東京教育大学は、敷地が狭く、かつ、キヤンパスが文京区大塚、目黒区駒場、渋合区幡ケ谷の三箇所に分散しているため、他に広大な土地を求めて全学部を統合し、総合大学として拡充発展を期することが建学以来の宿願であり、昭和三七年九月二七日の評議会でその旨の決議も行なわれた。ところが、昭和三八年五月三一日文部省から大学当局に示された筑波研究学園都市への移転に関する計画は、単なる構想の域を出ないものではあつたが、移転の場所が首都圏から余りにも離れすぎ、しかも、全く新らしく開発する都市であるだけに、総合大学としての研究教育活動や生活条件等について幾多の不安・危惧があるばかりでなく、新大学の管理運営そのものが、大学の自治を大幅に制限して政府や財界の要望に即応する強力な体制を創り上げることを狙いとするものであるので、これを受諾するかどうかは、大学自体にとつてはもとより、移住を余儀なくされる教職員および学生にとつても、死活にかかわる大問題であることは、多言を要しないところである。

そして、東京教育大学においては、同大学が旧東京文理科大学と旧東京高等師範学校とを併合して設立されたという事情もあつて、特に、昭和三七年六月二一日の評議会決定によつて、教授会が大学自治の基本的主体であり、評議会は各部局間の連絡調整機関として統一体たる大学の運営上必要と認められる事項に限り独立の決定権を有するという教授会至上主義をうたつたいわゆる「朝永原則」が確立されていて、筑波移転のごとき問題は、各学部教授会が最終決定権を有することとなつていた。

しかるに、大学当局は、「朝永原則」を無視して、筑波移転問題の議決機関は評議会であるとし、しかも、前記計画が昭和三八年五月三一日の評議会の決定により「大学の移転特別研究委員会」(後に「大学の将来計画委員会」((以下「全将計」という))と改称された。)に付託され、「全将計」において部局間の利害を調整できないまま昭和四〇年七月二日評議会に対し経過報告を行ない、これを各学部に持ち帰つてさらに検討を続けることとなつていたにもかかわらず、突如同月二三日評議会に対し、筑波移転を想定した場合の大学側の条件を文部省が容れるかどうかを打診する旨の議案を提出し、文学部評議員の総退場、教育学部評議員の反対の中にそれが強行可決され、さらに、昭和四二年六月一〇日の評議会では筑波への条件付土地確保の決定が採択され、当時の三輪知雄学長は、同月一九日文学部教授会が現段階では移転に応ずることができず、「将来にわたり」大塚地区にとどまる旨の見解を表明していたにもかかわらず、文部大臣に対し、その旨を秘匿して、土地確保の意思を表示し、続いて、昭和四三年六月二〇日には文学部評議員の出席しない評議会で移転調査費の計上が決定され、また、移転強硬派の教官有志の私的組織としての「本学の正常化と発展を期する会」の手によつてつくられた、執行部体制の強化と教授会権限の制限を骨子とする「筑波における新大学のビジヨン」が、前記「全将計」に代わつて設置された「マスタープラン委員会」の原案として評議会に提案され、評議会は、昭和四四年七月七日これを採択可決するとともに、同月二四日の評議会で、文学部評議員退席のまま、右ビジヨンの実現を期して筑波へ移転することが最終的に決定されるに至つた。

(教官排除のストライキの正当性)

(二)  およそ、新憲法の保障する学問の自由と教育を受ける権利とは、別個無縁のものではなく、これを統一的に把握して、基本的人権としての教育を受ける権利を実質的に担保するものが学問の自由であると解すべきであるから、大学における学生は、単なる営造物の利用者として、営造物管理権者たる大学当局の一方的な管理支配に服する地位にあるものではなく、教官、職員とともに、大学を構成する一員として、固有の権利と責任において大学の自治に参加すべき地位を有し、少なくとも、大学の存立、教育の内容、学内規律、生活条件等に関する事項については参加権を有するものというべきである。そして、学生と教官、職員とでは、その立場が異なり、参加の機能領域に相違がある以上、その間に利害の衝突、意見の対立をみることは必至であつて、これを解決するために学生がストライキに訴え、また、ストの効果を実効あらしめるべくピケツテイングの手段を用いることも、学生自らがすすんで教育を受ける権利を放棄し、集団的に表現の自由ないし言論の自由なる憲法上の権利を行使するという性質のものであるから、特別の立法をまつまでもなく、当然に正当視されるべきであつて、それによつて招来される教育・研究の停滞、学内秩序の混乱等は、大学側において受忍しなければならないものというべきである。

(1)  ところが、前叙のごとく、大学の存在と死活にかかわる筑波移転の問題について、学生を全く疎外して、しかも、執行部を中心とする強硬派の一部教官らの策謀のもとに、「朝永原則」を踏みにじつた非民主的な方法により―昭和四三年六月一四日の学長選挙の投票数に現われたごとく、教授会構成員の中でさえ賛否の数は、一八三対一六五と拮抗し、右構成員以外の教職員、学生をも含めれば―大学全構成員の圧倒的多数が反対であつたにもかかわらず、強引に既成事実を積み重ねて、移転が決定的なものとされたことに抗議し、あわせて新大学の基本とする管理体制の実現阻止を期して、学生の真摯な意見を右の審議に反映せしめんとする要望が全学にほうはいとして湧き起り、前記移転調査費の計上を契機として、文、教、理、農の各学部学生自治会は、ストライキをもつて立ち上がつた。

理学部学生自治会は、昭和四三年七月五日からストライキに入つたが、小西学生委員長が「学生との話合いをしないで教授会が重要な決定をするようなことはしない。」と再三明言し、教授会との団交の席上で、その旨を学生代表に確約したので、同月一二日一旦ストライキを中止した。ところが、夏休中の同年八月一七日、教授会は、前記移転調査費計上の評議会決定を承認し、これを受けて、評議会は、文部省に対する移転調査費の請求を学長に一任する旨の決定をしてしまつた。こうした教授会側の背信的行為に加わえて、同年九月二〇日の理学部学生と教授会構成員との懇談会において、教授会側は、右の措置について陳謝の意を表することなく、ただ一方的に教授会側の見解を学生におしつけることのみに終始したので、学生の怒りは、即日開催された理学部学生大会に集約され、他学部学生自治会との連携のもとに、「(イ)移転審議を白紙に戻し、土地確保決定、移転意向の表明、移転調査費計上決定を撤廃すること、(ロ)マスタープラン委員会の審議内容を公開し、同委員会を即時解散すること、(ハ)事態の紛糾をもたらした評議会、理学部教授会、同学生委員会は、自己批判を行ない、その責任者は、辞任すること、(ニ)学生を含む学内全階層の参加する大学の民主的管理運営制度を確立すること、(ホ)大学側は、政府の大学への干渉に反対する意思を表明すること、(ヘ)すみやかに全学集会、学部集会を開催して、右の諸点を確認すること」の六項目にわたる要求事項を決定するとともに、前回のごとき単純な授業放棄にとどまるストライキでは、妨害や切り崩しを受けるおそれがあるので、ストライキの実効を期するため、教官排除のストライキを行なうことを決議し、翌二一日から教授会構成員のW館入館を阻止するストライキに突入した。

理学部教授会は、学生側の再三、再四にわたる申入れにもかかわらず、学生側の切実な右要求に耳をかそうとしなかつたばかりでなく、ことさらに学内を避けて秘密裡に会議を開き、同年一〇月一日附属中学校の図書館で開催された教授会では、原告ら学生三、四十名が要請に赴くことを聞知するや、学部長、評議員らは、いち早く司書室に逃避し、応接に出た小西学生委員長が「教授会は終り、学部長や評議員はすでに退室して部屋にはいない。」と申し向け、学生代表が確認のため、了解を得て司書室に入つてみると、小林学部長、松井、宮島各評議員が卑劣にも電燈を消してその場に潜んでいるのを発見したいわゆる「炭小屋事件」なる学生侮蔑事件が発生し、その場で再会された教授会が「一〇月四日までに学生と話合いの場をもつ」ことを決議したにもかかわらず、一〇月三日の緊急教授会では、それが一方的に破棄され、また、同年一一月一三日天風会館で開かれていた教授会において、学生代表が話合いを求めて学生委員らと交渉中、教授会は、学生側になんらの連絡もなしに散会してしまう等教授会側の不誠意と裏切り行為が繰り返えされることによつて、学生と教授会との溝は、ますます深められていつた。

こうした経緯をたどつているうちにも、全学集会の開催が評議会によつて決議され、また、文部省から紛争大学における入試取止めの方針が打ち出されるに至つたので、かかる事態の発生を避けるべく、文学部を除くその余の学部の自治会は、同年末から昭和四四年一月中旬にかけてそれぞれストライキを解除し、評議会においても、体育学部のほか教、農学部の入試実施方を決議したにもかかわらず、大学当局は、全学集会については、文学部学生自治会から統一的代表を選出していないことと、移転問題について教授会側の意見が統一されていないことを口実にして、その開催を拒否し、また、入試取止めについても、文部省の方針を既定の事実のごとくに受け止めて、打開の努力を全然しなかつたため、遂に入試取止めの事態をみるに至つた。かくして、紛争の民主的解決の望みは、全く絶たれるにいたつたので、理学部学生自治会においても、昭和四四年一月二八日の大会決議に基づいて再び教官排除のストライキを決行した。ところが、三輪光雄学長の辞任に伴い学長事務取扱いに就任した被告学長は、同年二月二八日早朝、「非常事態」と称して、不法にも機動隊を大塚構内に導入し、文自闘の占拠していた本館およびE館の封鎖を解除し、爾来、警察権力のもとに、学生の入構制限を実施し、学内の民主的運動を禁圧し、教授会の権限を大幅に制限すること等によつて学長の専権体制を確立し、同年八月二八日高級事務官僚と学長とによる「本館封鎖対策本部」なるものを設置して、文部省の大学の管理運営に対する直接介入の途を開く等いわゆる新大学構想の先取り現象が展開され、まさにストライキの緊急性が実証されるに至つた。

(2)  かように、理学部学生自治会の行なつた教官排除のストライキは、その動機においてまことにやむを得ないものがあり、また、その目的も全く正当であるばかりでなく、排除の対象は、理学部教授会構成員のみに限られ、教授会構成員以外の教職員の入館は、完全に自由であり、したがつて、研究、授業を除けば、大学の日常業務は円滑に行なわれ、院生、助手を中心とする各教室単位に行なわれる四年生の卒業研究はもとより、院生の卒業、入試も例年どおり実施された。さらに、排除の態様も、文学部の一部暴力学生の行なつていた本館およびE館の完全封鎖とは趣きを異にし、W館入口の通路の両側に机を整然と並べて検問を実施し、教授会構成員に対しては入構を断念してもらうべく平和的説得を試みる程度の極めて穏健なものであり、実力をもつて教官の入館を阻止したことのないのはもとより、教授会構成員であつても、紛争の解決のためには学生と館内において話合いをしてくれることを期待し、その旨を再三教授会側に申し入れていたほどである。

被告らは、本件無期停学処分の事由として一一項目にわたる(イ)ないし(ル)の主張事実を挙示しているが、いずれも事実無根又は事実を著しく誇張したにすぎないものであり、仮りに然らずとしても、教官排除のストライキに随伴して発生した些細な偶然の出来事であつて、それ自体正当性の範囲を逸脱するものとはいえない。いま、これを右の各具体的処分事由についていえば、

(イ) 昭和四三年九月二四日W館内での補導連絡協議会の開催が阻止されたというのは、W館入口で学生の検問を突破しようとした小西教授が原告の「学生大会で、全学集会等の話合いの実現するまでは教授会構成員の排除を決定しているので、その趣旨を尊重して入らないでほしい。」との説得に応じたまでであつて、もとより、威力で入館を阻止したり、協議会の開催を妨害した事実はない。

(ロ) 同月二七日市川助教授が入館を阻止されたというのも、検問に当つていた学生が同助教授に右学生大会の決定を告げただけであつて、それ以上の行動に出たわけではなく、同人の身体に危害を加わえた事実もない。

(ハ) 翌二八日の杉山教授監禁事件は、全学闘所属の学生が行なつたものであつて、理学部学生自治会の方針に反するのはもとより、原告個人とも全く関係がない。

(ニ) 同年一〇月九日原告が小西学生委員長に対してW館内に入るのを許さないと述べた事実はなく、ただ、同教授が再三責任をとつて辞任する旨を表明していたので、検問に当つていた学生が同教授をすでに学生委員長ではなくなつたものと誤解し、「入館を差し控えてもらいたい。」と申し入れたにすぎない。

(ホ) 同月一六日原告が福田教授をW館外に押し出した事実はなく、同教授は、学生に説得する余裕を与えず、やにわにW館入口に突進してきたため、よけそこなつた学生に衝突したまでであつて、むしろ、同教授の一方的挑発行為というべきである。

(チ) 同年一一月二七日W館内でリンチ事件が発生した事実も、小西教授が入館を阻止された事実もなく、かえつて、同日夕刻他大学の学生を含む全学闘と称する学生約八〇名が全学封鎖を決行しようとして守衛所を占拠したので、理学部学生自治会常任委員らが、教・農両学部の自治会執行部員らとともに、守衛所を奪還し、全学封鎖を免かれしめたのであつて、当日は、理学部の教授会構成員はもとより他学部の教授らもW館に入館し、それぞれ教授会を開催したのである。

その余の(ヘ)、(ト)のごとき主張事実はなく、被告らの誤認によるものであり、また、(ヌ)の主張事実は、前記「炭小屋事件」を指しているものと思われるが、真相は、さきに述べたとおりであり、(ル)の原告が約四〇名の学生とともに三輪学長の私宅へ押しかけた点の主張も、右(ヌ)および(リ)の主張事由とともに、事実を歪曲しているばかりでなく、処分事由とされた教官排除のストライキとは何らの関連性もない。

以上によつて明らかなごとく、理学部学生自治会の行なつた教官排除のストライキは、その動機、目的において正当であり、また、教官排除の態様も、ピケツテイングとして平和的説得の域を出ないものであるから、本件無期停学処分は、所詮、適法なストライキ自体を弾圧するものであつて、憲法二一条、二六条に違反する無効の行為というべきである。被告らは、前記挙示の事由を総合して原告の幹部責任を問うものであると主張するが、個々の行為が正当である以上、それを総合したからといつて、正当な行為が違法となるいわれはなく、また、幹部責任なるものも、もともと、団体統制の不十分、不適切な統制力に関する団体内部の責任問題についていわれるべきものであるから、被告らの主張は、すでに、この点においても失当たるを免かれない。

(処分加重理由の違法性)

(三)  被告らは、本件放学処分につき、原告が無期停学中であるにもかかわらず、補導教官の補導・警告に応ぜず、構内に立ち入り、自治活動を継続したことをもつて処分加重の理由としている。しかし、補導教官の補導・警告なるものは、その言辞の如何にかかわらず―原告と同時に無期停学処分に処せられた当時の理学部学生自治会委員長金子文司について後にその処分が解除されるに至つた理由に徴しても明らかなごとく―思想の転向と自治活動放棄の誓約を迫り、大学当局の志向するいわゆる正常化路線に従わしめるという違法な目的の実現を狙いとするものである。また、停学処分の効果は、学生の入構、自治活動等の禁止、制限には及ばないのであるから、停学処分中といえども原告が学生として入構、自治活動の自由を有するのはもとより、大学当局が昭和四四年四月の授業再開以来学生に対して実施してきた入構制限は、「学生の本分をまもり、学内諸規則に従つて」、「学問研究に専念し」、「本学の正常な管理運営を阻害する行為を行なわないこと」等の諸項目を内容とする誓約書の提出を入構許可の条件とするものであるが、これは、学園の非常事態に藉口して、正常化路線にそわない学生の自治活動を禁圧し、教育を受ける権利と思想表現・集会結社の自由を侵犯する違憲の措置であるから、いずれも、これをもつて処分加重の理由となし得ないものというべきである。

また、被告らは、本件放学処分についても、八項目にわたる(イ)ないし(チ)の具体的処分事由を挙示しているが、いずれも、原告が無届で入構し、学生集会に参加したことの違法を前提とするものである。しかし、かかる前提そのものが失当であることは、前叙のとおりであるばかりでなく、その個々の主張事実についてみても、(イ)および(チ)のごとく、原告が農学部の駒場構内および東京大学の農学部構内に立ち入り、集会に参加したり、理学部学生大会を開催したのは、当時大学当局が不法にも大塚構内における学生集会の開催を事実上禁止していたことによるものであるが、駒場の農学部はもとより、東大農学部においても、他学部又は他大学の学生の入構を認めていたのであり、殊に、昭和四四年一〇月一五日には、禁止に違反して東大構内に入構し、学生大会を強行したというようなものではなく、集会開始後東大当局の方針が不許可に変更されたため、東大農学部自治会代表者をまじえて、原告らが東大農学部の当局者と平穏に話し合い、予定を繰り上げて解散したのである。また、その余の主張事実は、いずれも、事実誤認ないしは前叙のごとく学生として認められた当然の権利行使である。

(手続上の瑕疵)

(四)  憲法三一条の保障する法定手続の原則は、自然的正義ないし法の支配の思想に根ざす永久普遍の原理であるから、単に刑事の手続のみならず、基本的人権にかかわる行政の手続についても適用ないし準用があるものと解すべきであり、殊に、本件のごとく、ストライキによる秩序違反を理由として、学生の基本的権利ないしは地位そのものを剥奪する懲戒処分については、当該処分がストライキの相手方であつて紛争の当事者たる大学自身によつて行なわれるものであることに鑑みれば、法定手続ないし正当手続の要請する告知、弁明の機会を与えることは、学内規則にその旨の定めがあるかどうかにかかわらず、処分の不可避的な要件であり、これを欠く懲戒処分は、ただそのことだけで当然無効になるものといわざるを得ない。

ところで、本件懲戒処分は、いずれも、大学当局の志向する正常化路線が押し進められかけた時期において、しかも、移転強硬派の中心人物と目されている福田教授が委員長をしている処分検討委員会の手によつてその手続が行なわれたのであるが、無期停学処分について被告らの強調する呼出状なるものは、被告理学部長名義で、「昨年七月以来理学部学生自治会が行なつてきたストライキと称する行為について事情を聴取したい。」と記載されていて、処分検討委員会の作成した文書でないことは明らかであり、また、そこに記載されている「事情聴取」なる文言も、原告らの強く要求してきた理学部学生自治会と教授会との話合いを指称するものと解される節もあるので、これをもつて、適法な告知とは認め難い。そこで、原告は、かかる呼出状を受ける都度、被告理学部長および理学部教授会に宛てて、出頭命令の趣旨、根拠、立会教官の氏名等についての求釈明と処分の不当を訴える質問状、要望書と題する各書面を提出したにもかかわらず、右委員会はもとより被告らも、これに対して何らの回答をもしないまま、昭和四四年四月一五日処分検討委員会が、原告を無期停学処分に付する旨の処分案を理学部教授会に提出し、教授会は、同月三〇日これをそのまま採択可決したのである。

なお、東京教育大学においては、全学的関連事由について学生を懲戒処分に付する場合には、当該教授会の議決が各学部間の補導連絡協議会で承認され、さらに、評議会の議を経て学長がこれを行なう旨の学内慣行が確立されており、しかも本件無期停学処分は、補導連絡協議会において理学部教授会の原告を無期停学処分に付する旨の決定が否決されたにもかかわらず、評議会の議決を経て、執行されるに至つたのである。

また、本件放学処分については、原告に対して告知、弁明の機会が一切与えられることなく、同年一〇月二二日の教授会で議決され、しかも、補導連絡協議会の承認を受けることなく、同月二二日の評議会の議を経て、執行されたのである。

そして、若しも、原告に対して告知、弁明の機会が与えられていたとすれば、被告らの挙示する前記各処分事由が学生の本分にもとるものでないことが容易に判明したであろうという意味において、本件懲戒処分は、いずれも、当然無効というべきである。

(教育的措置としての裁量権の濫用)

(五)  叙上の主張をすべて度外視して考えてみても、およそ、大学の学生に対する懲戒処分は、それが大学に認められた自律権に基づくものであるとはいえ、停学、放学のごとく学生たる地位の停止、剥奪という学生の基本的権利を侵害し、反面、教育的措置としての価値の少ない処分にあつては、処分権者に認められる裁量権の範囲は極めて狭く、処分権者は、当該行為の動機、目的を考慮し、被害の程度を勘案し、教育上必要やむを得ないと認められる場合に限り、その限度において行なうべく、また、それが他との比較において公平を失しないよう配慮すべきであり、これらの制限に違反したときは、その懲戒処分は、裁量権の範囲の逸脱ないしは裁量権の濫用として違法になるものと解すべきである。しかるに、被告らは、教官排除のストライキの動機、目的が、前叙のごとく、大学の自治を守り、大学の存立にかかる筑波移転問題の審議に大学全構成員の意見の反映を求めるという学生の真摯な要求にあることを全然考慮することなく、また、右の教官排除によつて研究、授業を除けば大学の日常業務にさしたる支障を与えたわけではなく、全学集会の場をもつことによつて、容易に紛争を自主的に落着させて移転問題の円満なる解決をなし得たにもかかわらず、敢えて本件各懲戒処分を断行したこと、しかも、現下の紛争大学において他にかかる措置に出た事例がないこと等をもあわせて考えると、本件処分は、いずれも、明らかに、教育機関としての大学当局者に認められた裁量権の踰越、濫用というほかはないのである。

と述べ、被告の本案前の抗弁に対し、法治主義の原理の徹底を期した新憲法のもとにおいては、公権力の支配する特定団体の法秩序に服する者といえども、それに服するに至つた原因が法律の規定に基づくものであると、自らの自由意思に基づくものであるとを問わず、当該団体の全面的かつ無制限な支配に対し包括的な授権を与えたものと解すべき合理的理由はなく、そこには当該団体の自治の権能として或程度の裁量の余地は認められるとしても、それが、裁量権の範囲を逸脱し又は濫用にわたる場合には、法律上の争訟として司法権の統制を免かれないこと、他の一般の行政処分の場合と異なるところはないものと解すべきである。

また、本件無期停学処分無効確認の訴えは、まさに、原告の学生たる地位の確認そのものを目的とするのであるから、単なる個個の具体的な現在の法律関係に関する訴えによつてはその目的を達することができないものである。なお、本件無期停学処分によつて生ずる回復の困難な損害を避けるため、執行停止の救済を受ける必要があることからみても、その無効確認を求める右訴えの適法性は、肯認されるべきである、と付陳した。

二、被告ら代理人は、まず、「本件訴えをいずれも却下する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を、若し右の申立てにして理由がないときは、「本件無期停学処分無効確認の訴えを却下する。」その判決を求め、本案前の抗弁として、

およそ、大学の学生たる身分ないし地位は、当該個人が一般市民として享有している権利、自由に属するものではなく、自律権の認められている大学という特殊施設に自由意思に基づき入学が許可されたことによつて与えられるものであり、また、懲戒処分が、その種類、程度の如何を問わず、すべて、大学の内部規律に関する事項であることは明らかであるから、大学が学生に対して行なう懲戒処分は、たとえそれが学生たる地位を停止又は剥奪するものであつても、特段の規定の設けられていない現行法のもとにおいては、法律上の争訟には該当せず、大学の自治にまかされているのであつて、司法権の統制には親しまないものというべきである。

仮りに放学処分は、公の営造物に対する市民の利用権を全面的に排除するものとして、法律上の争訟に該当すると解する余地があるとしても、停学処分にはかかる効果が伴わないのであるから、本件停学処分無効確認の訴えは、その対象を欠く不適法な訴えとして却下すべきである。そればかりでなく、本件無期停学処分無効確認の訴えは、学生たる地位の確認という現在の法律関係に関する訴えによつて目的を達することができるのであるから、行訴法三六条の規定により、その原告適格を欠くものというべく、この意味においても、不適法な訴えとして却下を免かれないというべきである。

と述べ、本案につき、「原告の請求をいずれも棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、答弁として、原告主張の請求原因事実のうち、いわゆる「朝永原則」の存在、大学の筑波移転問題につき、民主的な討議が十分に尽されることなく、しかも、圧倒的多数の反対意見を無視して、大学当局が強引に移転を一方的に決定したこと、新大学の構想が政府や財界の要請に即応する管理体制を基本とするものであること、理学部学生自治会の行なつた第一波のストライキの際、小西学生委員長が学生代表に対して「学生との話合いをしないで教授会が重要な決定をするようなことはしない。」と確約したこと、学長が文学部自治会の見解を秘匿して文部大臣に対し土地確保の意思を表明したこと、移転調査費計上に関する評議会の決定を承認した直後開催された学生との懇談会が、理学部教授会において右の措置に関する教授会側の見解を学生におしつけることに終始したこと、理学部学生自治会の行なつた第二波以降の教官排除のストライキの実態が原告主張のごときものであること、全学集会の開催が遂に実現できず、また、入試取止めの事態を招来するに至つた原因が原告主張のごときものであること、大学側の呼出状に対して原告から公開質問状および要望書なる書面が提出されたこと、全学的関連事由による学生の処分について補導連絡協議会の承認を受けるべき旨の学内慣行が確立されていることは、いずれも、これを否認するが、その余の主張事実は認める。また、原告の法律上の主張は、すべて、これを争う、と答え、原告の主張に対して、次のように述べた。すなわち、

(「筑波移転」問題の審議について。)

(一)  東京教育大学は、文学部、教育学部、理学部、農学部、体育学部および光学研究所の五学部、一研究所よりなる国立大学であり、その管理運営機関として、学長、教授会と学長・学部長・各学部選出の二名の教授・研究所長よりなる評議会とがあり、教授会と評議会との権限関係については、昭和三七年八月二七日の評議会決定により「大学の管理運営について」という基本原則が定められていて、各部局限りの事項については教授会が、大学全般にわたる事項については評議会がこれを決定することとなつている。原告主張のいわゆる「朝永原則」なる教授会至上主義の原則は、もともと、朝永学長が国立大学協会等に本学の管理運営方針として報告したものにすぎず、評議員全員一致の見解という形式はとつているものの、その報告に際してもいくつかの問題点が指摘されていて、それらの問題点がさらに審議を尽されて名実ともに正規の評議会決定となつたのが、右の「大学の管理運営について」という基本原則である。したがつて、筑波移転のごとき大学全般の管理運営に関する事項について評議会がその審議決定を行なうのは、もとより当然のことである。

この筑波移転問題については、昭和三八年五月三一日から昭和三九年七月まで評議会において、その後各学部より選出された委員で構成する特別研究委員会ないし「全将計」において三年有余の歳月を費して慎重審議を重ね、各部局間の意見の調整に努めてきたのであつて、不幸にも文学部の根強い反対によつて全学的な意見の一致をみるに至らなかつたとはいえ、昭和四二年六月一〇日の評議会の土地確保の決定も、文学部の調整案と称する見解と他部局の見解とを並記したままで採択されたほどであつて、各学部の意見は、十分に尊重されてきたのである。それにもかかわらず、右決定以来文学部の評議員が評議会の審議に参加しなかつたのは、前記審議の経過に徴しても明らかなごとく、自ら審議権を放棄したものというほかはないのであるから、このことの故をもつて、筑波移転問題の審議が非民主的に行なわれたなどと非難するのは、当らないというべきである。また、昭和四三年八月一七日理学部教授会が移転調査費計上の評議会決定を承認したのは、もともと、移転調査費計上に関する事項が前叙のごとく教授会の議決事項ではなく、単なる教授会に対する報告事項にすぎないことと、当時評議会においてはすでに移転調査費を翌年度の予算要求に繰り入れることとしていたことによるものである。そして、学生委員長であつた小西教授は、そのことを何回となく原告ら学生に説明し、特に、同年九月二〇日「理学部教職員・院生・学生懇談会」を設け、原告らと予め十分協議のうえで、その場において移転調査費計上決定承認に至るまでの経緯、右費用計上の意義等について質議応答が行なわれることとなつていたにもかかわらず、当日午前一〇時三〇分から開始された右懇談会の席上、学生側を代表して発言に立つた原告は、教授会が前記移転調査費計上の承認を学生の帰省している夏休み中に行なつたことに対する抗議のみに終始し、教授会側の発言を完全に封じ、かような状態で予定の時間が三〇分も超過してしまつた。そこで、小西学生委員長が、学生側と、教授会に働きかけて数日中に同旨の会合を開いて話合いを続けるよう努力する旨を約束し、右懇談会を終了した。ところが、同日午後開かれた理学部学生大会において、突如として、教官排除のストライキが決議され、翌二一日からそれが実行されたのである。

さらに、機動隊の導入、入構制限等の措置についていえば、文自闘等文学部の学生による本館の封鎖、理学部学生自治会によるW館の占拠等によつて、大学の機能は、全く麻痺するに至つたので、評議会でその対策を真剣に協議したが、全学的な意見の一致が得られなかつたところから、被告学長は、大学の管理運営の責任者として、土地建物を保全し、研究教育機関としての大学の正常な機能の回復を図るべく、昭和四四年二月二七日全学生に対し所信表明を行ない、強く協力方を訴えたが、その実効が得られず、やむなく、翌二八日遂に大塚構内に機動隊の出動を要請し、その手によつて封鎖を解除し、続いて、授業の遅れを取り戻すため、学内秩序維持の手段として、入構制限を敷き、無届の集会、掲示、マイクの使用等授業の妨害となるような学生活動を禁止し、よつて、文学部を除くその余の学部においては同年五月中旬までに、また、文学部においても同年一〇月までに授業の再開をみるに至つた。

(教官排除のストライキの実態について。)

(二)  そもそも、大学は、学問の府として深く真理を探求し、専門の学問を研究教授することをその目的使命とするものであつて、大学に認められた学問の自由と自治の機能は、この目的使命を達成するため、直接には、教官その他の研究者に保障されたものであり、大学の学生が学内において享有する自由と自治は、教官その他の研究者が右の保障に基づいて自由に学問の研究、発表を行ない、施設が大学当局によつて自主的に管理運営されることに基づくものであるから、大学の右のごとき目的使命を達成するためには、その必要な限度において、学生の自由と自治が制限されることは、当然であつて、これをいわゆる特別権力関係の法理によつて説明するかどうかは、単なる用語の問題にすぎないものというべきである。

いま、これを本件についていえば、大学の学生が学内において自治活動をなし得る自由を有することはいうまでもなく、また、いわゆる学生のストライキも、自治活動の一態様として承認されるべきものであるとしても、もともと、大学と学生との関係は、使用者と労働者との関係とは本質的に異なるものであるから、少数者の意思によつて多数者の行動を拘束するのはもとより、たとえ全員の意思によるとしても、教官その他の研究者の学問、研究を妨害したり、施設の占拠又は封鎖等の行動に出るがごときことは、大学の目的使命の達成を妨害するいわば大学の自己否定を意味するものであるから、その動機、目的はもとより、その態様の如何を問わず、断じて許されないものといわなければならない。

しかして、東京教育大学には、学校教育法一一条、同法施行規則一三条三項に基づいて制定された学則があり、その五八条は、「学生がその本分に背いた行為をした時は、懲戒に処する。懲戒は、戒告、停学、放学の三種とする。」と規定していること、原告の明らかに争わないところであり、また、理学部学生自治会が昭和四三年九月二一日より約五か月間にわたり教官排除のストライキを行ない、これがために、理学部教授会構成員がW館内の研究室又は講義室に立ち入ることができず、その間大学の研究教育活動が停止したことは、原告の自認するところであるので、たとえ右ストライキの動機目的が原告ら主張のごときものであつたとしても、また、いわゆる教官排除が言論の自由の範囲を出ないものであつたとしても、前叙の行動そのものが右学則五八条にいう学生の本分に違背する行為に該当するものというべく、しかも、原告が右自治会の副委員長として該ストライキを計画、指導したという原告自認の事実に徴すれば、ただそれだけで、すでに、本件無期停学処分の適法であることは、明らかであるというべきである。

なお、念のために、本件教官排除のストライキに関する具体的事実関係について論及すれば、教官排除の実態は、理学部の校舎であるW館(正確にはW一号館とW二号館)の正面玄関を除いた他の出入口を閉鎖し、正面玄関の通路の両側に机、椅子等により、一人がやつと通り抜けられる程度の間隙を残したバリケードを構築し、午前八時半から午後五時まで常時十数名の学生を配置し、教授会構成員が研究、授業のために入館するのを威力によつて阻止するものであるが、それが前叙のごとく約五か月にわたり、教授会の再三にわたる警告にもかかわらず継続され、その間に、

(1)  原告の自ら指揮する又はその指示を受けた数名の学生により、実力行使を背景とする威力に訴えた次のような行為が展開された。

(イ) 昭和四三年九月二四日小西教授が、補導連絡協議会を開催するため、原告のいない間に、予め自治会側の了解を得てW館に入館していたところ、原告から強硬に退去を要求され、これに応じなければ紛議の生じかねない事態となるに至つたので、やむなく会場を他に移さざるを得なかつた。

(ロ) 同月二七日市川助教授が講義のためW館内に入ろうとしたところ、七、八名の学生に立ちふさがれ、同助教授が憲法で保障されている研究教育の自由を主張して学生と口論となつたが、学生は、自治会常任委員の命を受けているから、入館を認めるわけにはいかないといつて譲らず、敢えて入館を強行すれば身体に危害を加わえる気勢を示して、同助教授の入館を阻止した。

(ハ) 翌二八日杉山教授がW館内の研究室において学生の就職の推せん状を作成していたところ、数十名の学生が研究室に侵入して館外に退去するよう強要し、さらに、同研究室の入口外側に机、椅子等を積み上げ、約一時間にわたり同所にこれを監禁した。

(ニ) 同年一〇月九日小西学生委員長が、理学部学生委員会をW館内で開催することの自治会側の了解を取り付けていたので、同館内の会議室にいたところ、原告から退去を強要され、紛議を避けるため、館内での右委員会の開催を断念せざるを得なくなつた。

(ホ) 同月一六日福田教授が研究室へ行くためW館に入館しようとしたところ、原告は、数名の学生とともに、同教授の前に立ちふさがつてこれを阻止した。

(ヘ) 同月三〇日右教授は、立番中の学生に腕をとられて入館を阻止され、その際学生は、同教授に対して自治会の決定は憲法に優先すると揚言した。

(ト) 同年一一月二六日評議員と五学部学生代表との話合いをもつことについて、民青系の学生と三派系の学生とによつて投石を交えた守衛所の争奪戦が演じられたが、W館内にいた橋本教授が見回りのため一旦外に出て、再び研究のため入館しようとしたところ、原告が、それを阻止したうえ、「これが落選理学部長の橋本だ。入れるな。」といやがらせをいい、机らしきものの上にあがつて演説を行なつた。その後同教授が会議室に置いてきた茶の湯の道具は、紛失してしまつた。

(チ) 翌二七日の朝八時頃W館内で学生のリンチ事件があるとの報を受けた小西学生委員長は、職責上入館しようとしたところ、原告らの指示を受けた学生によつて入館を阻止された。

(2)  また、教官排除のストライキに派生して、次のような行為が行なわれた。

(リ) 昭和四三年九月二四日福田教授がW館前において文自闘の委員と話合いをしていたところ、原告は、確認書を取りあげて破棄し、文自闘の学生らと長時間にわたり殴合いを演じた。

(ヌ) 同年一〇月一日教官排除のストライキ実施以来、理学部教授会をW館内で開催することができなくなつたため、当日午後六時頃から附属中学校において教授会を開いていたところ、原告の率いる理学部学生約三〇名が土足で同会議場に押しかけ、当時すでに教育学部や農学部の学生による評議員らの軟禁事件が続発していたので、知らせを受けた教授会は、不祥事件の発生を恐れて中止のやむなきに至つたが、原告ら一部学生は、執拗に学部長との面会を強要し、さらに、会議の続行を求めて、教官が室外に出ることを許さず、辛うじて廊下に出た教官に対しては多数の学生がこれを取り囲んで室内に押し返えし、用便にも監視員がつく等の方法によつて教官を同所に軟禁した。

(ル) 文自闘の本館封鎖、理学部学生自治会の教官排除等一連の学生の実力行動のため、学長が学内にいることは、事実上不可能の状態にあつたところ、同月八日午後四時頃、原告は、学生約四〇名を指揮して、当時の三輪光雄学長の私宅へ押しかけて面会を強要し、家人から不在を告げられても容易に立ち去ることなく、午後九時頃まで約四時間にわたつてシユプレヒコールやデモを繰り返えし、附近の住民に対して多大の迷惑を及ぼした。

(3)  かように、原告らの計画指導した教官排除のストライキによつてW館の入館が阻止されたため、その間、授業、試験ができなかつたのはもとより、教官らの研究は、完全に停止され、回復し難い重大な損害を被つた。たとえば、(イ)印東教授は、全く偶然の機会に発見した学術上極めて貴重な「スピネルス」と称するかびをW館内の研究所で培養していたところ、それが乾燥枯死してしまい、研究を断念せざるを得なくなり、(ロ)橋本教授は、採集した化石の標本のいくつかが風化してしまい、研究に重大な支障を来たし、(ハ)杉山教授は、調査船に便乗して採取し、W館内研究室の冷蔵庫に格納していた海産発光微生物が自己分解して廃棄のやむなきに至つた等その事例は、枚挙にいとまがないほどである。

理学部教授会は、以上のごとき学生自治会の行動は、いずれも、授業放棄に反対する学生の教育を受ける権利を侵害するとともに、教官の研究・教育の自由を侵害し、その公務の執行を妨害する違法な行為であり、これを個別的にみればともかくも、総合的に判断すれば、学則五八条にいう学生の本分に違背する行為に該当することが明らかであるので、その幹部責任を間う意味において、理学部学生自治会の委員長であつた金子文司とともに、原告に対し、「本人が反省したと認められる場合には、教授会の議を経て処分を解除し、逆に、今後とも同一の違法行為を繰り返えす場合には、放学処分にする。」との条件を付して、本件無期停学処分を行ない、学級担任の大森助教授と教室主任の須藤教授を停学期間中の原告の補導責任者に選んだ。

(処分加重理由について。)

(三)  原告は、停学中の身であり、しかも、補導教官の補導に付せられているにもかかわらず、たび重なる補導教官の呼出に応じないばかりでなく、自宅に電話をしても応接に出ない有様で、補導教官の補導を全面的に拒否し、しかも、ようやく学内秩序が正常化せんとしている時期に、無届で、しばしば、構内に立ち入り、次に掲げるような学則違反の行為を繰り返えした。

(イ)  昭和四四年五月三〇日、農学部の駒場構内に立ち入り、「農・理連帯決起集会」に参加した。

(ロ)  同年七月一日大塚構内における「第二波全教育大集会」と称する大学立法研究集会に参加し、大学当局の解散・学外退去の警告を無視し、ハンドマイクを使用して、演説をなし、シユプレヒコールを繰り返えした。

(ハ)  同月九日W館内の会議室で行なわれていた理学部教授会に対し、同会議室前の廊下に、多数の学生を指揮して、渡部学生委員長の制止にもかかわらず、ハンドマイクで演説を続け、教授会の審議を著しく妨害した。

(ニ)  同月一九日E館屋上において開催された筑波移転阻止と大学立法粉砕をスローガンとする学生の無届集会に参加した。

(ホ)  同年九月一日お茶の水女子大学構内で開かれた「教育大闘争支援全国連絡会議」と称する集会の終了後、原告は、その代表者とみられる他大学学生約四〇名を引き連れ、検問係の制止を聞かずに大塚構内に入り、全学闘の暴挙跡、大学周囲の柵の状況等を案内説明し、構内にいた橋本教授に対し、「これが理学部の反動教官の橋本だ。覚えておくとよい。」等暴言をはき、また、帰りぎわに検問担当教官に対し約二〇分間にわたりいやがらせをいつた。

(ヘ)  同月五日E館四〇三号室での無届集会に参加した。

(ト)  同月一〇日大塚構内において福田教授から停学中入構していることを咎められるや、同行の学生らとともに、同教授を取り囲み、拳を振り上げる等これに反撃する気勢を示し、同教授をして身の危険を感ぜしめるに至つた。

(チ)  同年一〇月一五日一部学生らとともに、東京大学農学部に赴き、同大学当局の制止にもかかわらず、無断構内に立ち入り、かつ、同大学農学部長の二回にわたる集会中止・解散命令を無視して、「東京教育大学理学部学生大会」と称する集会を開催、続行し、同大学に対して多大の迷惑をかけたばかりでなく、本学の体面を著しく傷けた。

そこで、処分検討委員会は、同月一三日と二一日の二回にわたり、原告の以上のごとき諸行為を検討した結果、原告には反省の色が認められないと判断してその旨教授会に答申し、また、補導教官からも、同月一八日はじめて原告に会うことができたので、補導のために入構させるべく保証人連署の誓約書をとり、同月二〇日学部長までの入構申請手続をすませたのに、原告は、その直後大塚構内で開かれた無届学生集会にリーダー格で参加し、補導教官に見付かるや、いち早く姿をくらましてしまつたことの報告と、これ以上補導の責任はもてない旨の申入れがあつたので、教授会は、原告を放学処分に処することを決定してその執行の時期については被告学部長に一任し、被告学部長は、原告が反省して学業に専念する決意を表明するのを期待して約一〇日間待つていたが、その期待も水泡に帰したので、同月三一日遂に処分の執行に踏み切つた次第である。

(告知・弁明について。)

(四)  学生を懲戒処分に付するにあたり、本人に対し告知・弁明の機会を与えることは、望ましいことではあるが、わが国現行法体系のもとにおいては、いまだ処分の手続的要件とされていないことはいうまでもなく、また、本学の学則上もその旨の定めはない。

しかし、本件無期停学処分にあたつては、公正を期するため、原告に対し昭和四四年三月二八日理学部長代理名義で、文書により、事情聴取のため同月三一日までに出頭するよう通知し、翌二九日と翌々日の三〇日の二回にわたり、浅香学生委員長が、一五分ないし四〇分間にわたり電話で母親に対し右呼出状の趣旨を説明し、本人にその旨を伝えて出頭するようすすめてくれることを依頼したが、原告は、これに応じなかつたので、同年四月三日再度学生委員長が直接原告に会い現在までの推移を説明して出頭を要請し、原告がこれにも応じなかつたので、同日内容証明郵便をもつて同月七日必ず出頭すべき旨を通知し、補導教官の大森助教授からも、電話で重ねて出頭方の申入れをしたが、原告は、遂に出頭しなかつたのである。その間、同年一月四日教室主任会議の決議により、各教室から選出された委員で構成する「教育処置検討委員会」が設けられ、該委員会が同年三月一七日までの間前後七回にわたつて慎重審議を重ね、同月一九日教授会に対して処分に付すべき旨の答申をなし、教授会は、さらに、各教室より一名・正副委員長・評議員合計一三名からなる「処分検討委員会」を設けて、処分の種別、程度を検討し、成案を得るまで八回にわたる審理を遂げている。

なお、原告主張の「補導連絡協議会」なるものは、学生の厚生補導に関する補助的連絡機関にすぎず、本件のごとき一学部のみに関する事由による学生の懲戒処分については、当該学部教授会限りでこれを決定し、そのうちの戒告、停学の処分にあつては学部長が、放学処分にあつては学長がこれを執行することとなつていて、もとより、補導連絡協議会の承認を経ることは、処分の手続的要件ではない。

また、本件放学処分にあたり、原告に対して呼出しをしなかつたのは、前叙のごとく、さきの無期停学処分の際たび重なる出頭命令にもかかわらず原告がこれを拒否したことから、正規の呼出しをしてもその実効が挙らないと予め判断されたことと、原告が諸般の事情から事実上放学処分の審議のなされていることを察知していたと認められたことによるものである。

(教育的措置の裁量権について。)

(五)  本件懲戒処分が、いずれも、原告主張のごとく学生の自治活動を弾圧するために行なわれたものでないことは、前叙のごとく処分の前後を通じて学生の正規の自治活動が広く肯認されており、殊に、理学部学生自治会の実施した第一波の単純なストライキが本件いずれの懲戒処分の事由ともされていないことからみて明らかであり、本件各懲戒処分は、まさに、教官排除のストライキによつて大学の機能を麻痺せしめるに至つた自治会の行動に対する原告の幹部責任を追求するためになされたものである。

しかして、大学の学生に対する懲戒処分は、教育施設としての大学の内部規律を維持し、教育目的を達成するために認められた自律的措置にほかならないのであるが、もともと、懲戒権者が学生の行為に対して懲戒権を発動するにあたり、当該行為が懲戒に値いするものであるかどうか、懲戒処分のうちいずれの処分を選ぶべきかを決定するについては、当該行為の軽重のほか、本人の性格および平素の行状、右行為の他の学生に与える影響、懲戒処分の本人および他の学生に及ぼす訓戒的効果等諸般の要素を考慮する必要があり、これらの点の判断は、学内の事情に通ぎようし直接教育の衝に当つている者の裁量にまかすのでなければ、適切な結果を期することができないことは明らかであるから、処分権者の行なつた当該処分の決定は、それが「全く事実上の根拠に基づかないと認められる場合」であるとか、若しくは、「社会観念上著しく妥当を欠き、裁量の範囲を超えるものと認められる場合」を除き、処分権者の自由なる裁量にまかされているものと解すべきこと、すでに確立された判例である(最高裁判所昭和二八年(オ)第五二五号、同年(オ)第七四五号、昭和二九年七月三〇日第三小法廷各判決、民集八巻七号一四六三頁、一五〇一頁参照)。いま、これを本件各懲戒処分についていえば、いずれの処分についても、前叙のごとき行為が存在しており、これらの行為を総合して判断すれば、それが学則五八条所定の学生の本分に違背する行為に該当すると認められたことが「全く事実上の根拠に基づかない」ものといえないのはもとより、原告の主張するごとく、たとえ現下の紛争大学において懲戒処分を行なつた事例が他にないとしても、前叙のような違背の程度、処分の経緯、本人の請求等諸般の事情に徴すれば、それが「社会観念上著しく妥当を欠き、裁量の範囲を超える」ものといえないことも、また、極めて明らかである

と求べた。

三、証拠〈省略〉

理由

一  被告らの本案前の抗弁に対する判断

大学においては、自治が認められており、この自治の権能が大学の学生に対する懲戒処分にも及ぶことは、論をまたないところであるが、被告らは、このことから、大学の学生に対する懲戒処分が法律上の争訟に該当しないと主張する。しかし、大学の学生に対する懲戒処分が単なる内部的秩序維持の限度にとどまる場合は格別、学生の基本的権利に直接影響を与える場合においては、憲法が広く基本的人権を保障し、また法の支配の原理を基調としている趣旨に鑑み、それがただ大学の自治の機能に基づくということだけで、その法律上の争訟性を否定することは、相当でないというべきである。そして、国公立大学の学生は、入学の許可により、当該大学において教育を受け、公の営造物たる大学の施設、設備を利用しうる権利を与えられるのであり、学生に対する懲戒処分としての無期停学は、学生のかかる基本的権利の行使を長期間かつ無期限に停止し、また、放学は、学生のかかる基本的権利を行使しうる法律上の地位を剥奪するものであるので、いずれも、教育的見地によりなされるところから、懲戒権者の裁量に基づく随時就学又は復学の可能性が残されているとはいえ、処分そのものは、大学の内部的秩序維持の限度にとどまることなく、学生の基本的権利に直接影響を与えるものとして、裁判所法三条にいう法律上の争訟に該当すると解すべきである。もつとも、大学の学生に対する懲戒処分は、大学の自治の権能に基づき大学の責任においてなされるものである以上、被告ら主張のごとく、裁判所がその適法性を審査するにあたつては審査権の範囲に一定の制約が存するとしても、かかる司法審査権の限界の問題と当該行政処分が法律上の争訟に該当するかどうかの問題とは、厳に区別されるべきである。

されば、被告の本案前の抗弁は、所詮、排斥を免かれないものといわなければならない。

二  本案についての判断

原告が昭和四三年四月一日東京教育大学理学部に入学し、同年六月一日から少なくとも昭和四四年四月三〇日までの間理学部学生自治会の副委員長の地位にあつた(被告らは、本件無期停学処分によつて、自治会副委員長たる地位も当然に失うという見解をとつている。)者であるが、昭和四四年四月三〇日被告理学部長により、「昭和四三年九月二一日から五か月間にわたり『ストライキ』と称して理学部教授会構成員が研究室ならびに講義室に立ち入ることを原告及びその指導する多数の学生が威力で阻止し、よつてその研究教育活動を妨害した」ことが学則五八条所定の懲戒事由たる学生の本分に違背する行為に該当するとして無期停学処分に、また、同年一〇月三一日被告学長(当時は学長事務取扱い)により、「補導教官の補導・警告に応ずることなく、一部学生の先導となり、本学の規則に反する行為を繰り返えしたこと、昭和四四年一〇月一五日停学中であるにもかかわらず、自ら自治会の責任者であると宣言し、理学部の一部学生とともに東京大学農学部に赴き、同大学当局の禁止・説得を無視して入構し、集会の中止・解散命令にそむいて本学理学部学生大会と称する集会を強行した」ことを理由として、放学処分に処せられたことは、当事者間に争いがない。そこで、

(一)  まず、原告の本件無期停学処分違憲の主張について判断する。

おもうに、大学は、単なる営造物としての存在にとどまるものではなく、研究と教育の機関として、教官、職員のほか、学生をもつて構成される共同体であり、大学の学生は、大学の組織内にあるものとして、一般社会における市民的自由以上に、学習の自由を有し、また、学内において広範な自治活動をなしうる自由を享有していることは、明らかである。そして、大学の構成員の間には、学問の研究、教育という共通の基本的目的にもかかわらず、その地位、職分および責任を異にし、世代的にも異なつている等の関係で、対立の契機が存在しうることも、否定し得ないところである。また、個々の学生が共同意識に支えられて集団を形成し、その自治活動を通じ、集団としての存在を主張することも、自然であるといわなければならない。

しかし、いわゆる大学の自治は、固定的な概念ではなく、大学のおかれているそのときどきの時代的・社会的諸条件に適応した把握を必要とするものであるとはいえ、もともと、それが認められるにいたつた所以は、大学における研究、教育の目的が絶えず新たな真理の探求と高度の学術研究を行ない、その成果を発表、教授することによつて社会の健全な発展と調和に寄与することにあるが、かかる大学における研究、教育の目的を完遂するためには、必然的に既存の秩序と権威に対する懐疑的・批判的な態度をとらざるを得ないところから、憲法がこれを「学問の自由」として保障し、外部からの干渉、制約より保護しており、さらに、右の保障を実効あらしめるために、学問の研究・教育機関としての大学の管理運営を大学の自主的決定に委ねたのであると解すべきである。したがつて、大学の自治は、直接には、教官その他の研究者に認められたものであつて、それが従来いわれてきたごとく単なる教授会の自治にとどまり、それ以上に出ないものであるかどうかについては、議論の存するところではあるが、少なくとも、大学における研究、教育とかかわりあいのない者に対してまで与えられたものでないことは、たしかである。そしてまた、現行法上、大学の管理運営権が大学当局に与えられていることも、動かし得ない事実である(たとえば、国有財産法五条、 九条、教育公務員特例法四条、学校教育法一一条等参照)。

ところで、大学の学生は、本来、教育を受けるものであつて、教官その他の研究者と対等、同質の意味における大学の構成員でなく、せいぜい、その批判者的立場の域を出ないものであることからみて、前叙のごとく学生が大学の組織内にあるものとして一般社会における市民的自由以上に学習の自由を有し、また、学内において広範な自治活動をなしうる自由を享有しているのは、所詮、教官その他の研究者が憲法によつて保障された学問の自由に基づき、時の政治権力等の学外諸勢力よりの干渉を受けることなく研究やその成果の発表、教授を行ない、また、施設が大学当局によつて自主的に管理運営されることに由来するものであつて、学問の自由そのものに根ざすものではないというべきである。原告は、この点につき、学問の自由は、学生の基本的人権としての教育を受ける権利を実質的に担保する側面をも有しているから、学生には大学の自治の分担者として大学の管理運営に参加する固有の権利があるように主張する。しかし、教育を受ける権利は、経済的事情等により、国民が平等に教育を受けることを妨げられることのないよう、国の積極的な保護を要求するいわゆる社会権であり、前叙のごとき理由と要請のもとに大学における研究と教育の自由を保障した学問の自由とは、本来別個の権利であるが、大学の学生が市民として教育を受ける権利を憲法により保障されている以上、大学の学生のために重ねて学問の自由を保障すべきいわれはない。かように、教育を受ける権利は、学問の自由とは別個の権利であつて、一種の社会権にすぎないものであるから、かかる権利より学生には大学の自治の分担者として大学の管理運営に参加する固有の権利があることを導き出すのは、許されないものといわなければならない。また、学生の集会・結社および思想表現の自由も、いわゆる消極的自由であるから、これをもつて学生に対し大学の管理運営に参加する固有の権利を認めることの根拠となすことはできない。

もつとも、元来参加とは、社会の構成員が、平等の権利と義務とをもつて、当該社会で行なわれる決定に対し積極的に関与するものであり、学生の参加は、大学共同体内部におけるかかる直接民主主義の基本的な形態である。そして、大学の自治は、前叙のごとく、大学における学問の自由の保障の実効を期するために教官その他の研究者に認められたものではあるが、それ以外の大学構成員に対してかかる参加権を与えることも、もとより、右の自治の権能に属する事柄である。これまで、大学構成員としての学生の自治の位置づけが不明確又は不適切であつたことが、後に詳述するごとく、今次大学紛争の主要な原因のひとつとなり、大学制度の改革を押し進めるにあたり、学生の参加の問題が優先的にとりあげられている公知の事実に徴すれば、大学の自治における学生の参加の問題は、現下の事態を予測しないで制定された前記諸法令の文理解釈のみによつて容易に片付けられるものではなく、大学改革の進展と大学のおかれている社会的諸条件の改善に応じ、学生みずからの努力と、これに対する大学当局の謙虚な態度に支えられて、新しい大学の自治の中に築き上げられてゆくものというべきである。かように、今日の大学における学生の自治の位置づけは、理論上もまた事実上も、流動的な状態にあるとはいえ、少なくとも、まだ問題の解決をみない現段階においては、学生の前叙のごとき地位からみて、学生には大学の自治の担い手として当然に大学の管理運営に参加しうる固有の権利がある―つまり、学生の自治は、大学の自治の一環をなす―ものとは認め難く、学生が大学当局に対し自治活動を通じて行なう要求も、窮極的には、大学の自治の決定機関による任意の採択にまかされているものというほかはないのである。

しかも、前叙のごとく、大学内においても対立の契機の存在することは否定できず、学生が大学の一構成員として教官ないし大学当局の方針、措置に対して批判を表明しうることも当然であるとはいえ、単なる言論による批判の域を超え、学生自らをも含む大学の教育的機能を停廃せしめることを目指して行なう一斉授業放棄等の抗議行動に出ることを容認し、これを正当な権利行使と観念するがごときことは、対等当事者間における相反する性格の利害の対立を前提とする労働者のストライキと異なり、学生が教官と対等同質の構成員ではなく、また、大学における対立の契機も基本的には共通の基盤の上に立つものであることを看過し、大学の自己否定を認める結果となるので、当裁判所の、到底、賛同し得ないところである。もともと、真理探究の場である大学における研究、教育は、整然たる秩序のもとで一定の規律に従うことによつてはじめて可能なものであるから、大学の学生は、前叙のごとく、大学において広範な自由を享受することの反面、大学が研究・教育機関としての機能を営むうえで必要な規律に服すべき義務を負担し、自治活動の範囲を超えて大学の研究・教育機関としての機能を阻害する者に対しては、大学は、みずからの権限と責任において、一定の懲戒処分をなし得るものであり、また、それが大学に課せられた社会的責務でもあるといわなければならない。

されば、大学における学生が教官と対等同質の意味における大学構成員であり大学の自治の担い手として大学の管理運営に参加する固有の権利を有することを前提として、本件無期停学処分の違憲をいう原告の主張は、排斥を免かれないものというべきである。

(二)  次に、本件各懲戒処分が教育的措置としての裁量権の範囲を逸脱したものであるかどうかについて判断する。

大学における学生が大学の自治の担い手として大学の管理運営に参加する固有の権利を有するものと認められないことは、前段説示のとおりである。しかしながら、戦後、社会構造そのものに大きな変革が生じつつあるなかで、大学は、教育の普及と学問の発達に伴い、その規模の急激な膨張と組織の複雑・拡大化をきたし、また、科学技術・産業経済の発展とより高度化の要請によつて、大学の研究と教育が、好むと好まざるとにかかわらず、従来のごとく現行社会体制に対する批判者としての側面よりも、社会との結びつきの面がより強く表面に現われるようになつたことと、学生の社会的意識の昂揚と大学をも含めた権威・体制に対する不信、不満が誘因となり、ほうはいとして既成秩序の変革を求める学生運動が起り、それをめぐつて、各所にいわゆる大学紛争なるものが発生しており、しかも、かかる社会の転換期にみられる価値観の相違、円滑な意思疎通制度の欠如等にわざわいされて、大学紛争は、世代間の闘争の様相を呈しており、それだけに、現下の急務とされているいわゆる大学問題を解決し、大学制度の改革を押し進めてゆくにあたつては、前叙のごとく学生の自治が大学の自治の一環をなすかどうかの問題とは別に、学生の意見や希望を真摯に受けとめ、それを大学の意思形成の過程に取りいれることが、不可避的な要請となつていることに思いを致せば、大学の学生が大学当局のする管理運営に反対し、自分達の要求を実現するために行なう一斉授業放棄は、学生の自治活動として正当な権利行使といえないこと前叙のとおりであるとはいえ―それが特定の政治目的をもつて既成秩序の破壊をめざすものであれば格別―授業放棄そのものを学生の本分にもとる規律違反の行為として、一般的非行と同様に取り扱うことは、失当たるを免かれないと解するのが相当である。とはいえ、本来学問と理性の府であるべき大学において、暴力行為やそれ自体直接大学の正常な機能を麻痺せしめることを目的とする施設の封鎖又は占拠等の絶対に許されないのはもとより、自治会の決定に基づく場合であつても、単純な授業放棄はともかくも、それ以上の行動に訴えることも、それが、本来、授業放棄に反対する学生の授業を受ける権利や教官その他の研究者の研究教育の自由を侵害する性質のものであるから、相当長期にわたつて行なわれ、回復し難い重大な結果を招来するに至つたときは、その実行を担当した者のみならず、執行機関としてかかる行動を計画、立案し、決議の執行を指令した者も、その責任を問われることは当然であるといわなければならない。

被告らは、最高裁判所昭和二九年七月三〇日第三小法廷各判決(同庁昭和二八年(オ)第五二五号、同年(オ)第七四五号、民集八巻七号一四六三頁、一五〇一頁)を援用して、大学の学生に対する懲戒処分は、大学の自治の権能に基づき大学の責任においてなされるものであり、かつ、大学の自治の認められた趣旨・目的が前叙のごときものである以上、当該処分が全く事実上の根拠を欠いているとか、社会観念上著しく妥当性を欠き到底教育的目的に出たものとは認められないような場合を除き、懲戒権者の自主的裁量が尊重され、裁判所の司法審査権はこれに及び得ないと主張する。しかし、大学の学生に対する懲戒処分は大学がその自治の権能に基づいて行なう教育的措置であるから、懲戒処分に付するかどうか、また、懲戒処分のうちいかなる処分を選ぶべきかの判断は、学内の事情に通ぎようして直接教育の衝に当つている処分権者の裁量に待つのでなければ、適切な結果を期待し難いことはいうまでもないが、被告ら主張のごとく、その裁量権の行使がほとんど全面的に肯定され、前記のような極めて限られた場合でなければ司法審査の道が残されていないといいうるためには、大学という研究と教育とを目的として構成される共同体において、教官と学生又は教官相互間等に本質的な対立の契機が存在しておらず、大学の権威ないしは権限行使の妥当性が一般的に承認されていることを前提とするものであること多言を要しないところである。しかるに、現下の大学紛争をめぐり、前段叙説のごとき事情によつて、教官と学生との相互信頼関係が全く喪失し、大学の権威自体が問われて懲戒処分の基盤そのものが大きくゆらいでいる等右の前提条件の欠けている場合には、該前提条件の具備されている事案についてなされた前記判例をそのまま適用することは許されず、むしろ、通常の裁量処分におけるのと同様に、処分事由の存否はもとより、当該処分が教育的措置としての目的、範囲を逸脱するものでないかどうかということも、裁判所の審査に服するのが相当であり、本件訴訟がかかる場合に属することは、本件弁論の全趣旨に徴して極めて明らかである。

ところで、いわゆる大学紛争の過程において行なわれた行為が処分事由とされているときは、その審査にあたり、裁判所が当該行為の動機、目的を考慮するのはいうに及ばず、右の処分事由が本来的には紛争の両当事者にかかわりあいをもつことに基づくものであり、しかも、特別の立法のない現行法のもとにおいては、当然のことながら、紛争の一方の当事者たる大学当局自身の判断によつて懲戒処分が行なわれることに鑑み、処分事由とされた行為の法的評価も、静的、絶対的に行なうことなく、紛争の一方の当事者たる大学側の態度、事情と合わせて流動的かつ相対的になすことが、特に、肝要であり、被告ら主張のごとく、ただ単に被処分者の行為のみを取り上げ、それによつて大学の正常な業務が害されたかどうかという観点からのみ論ずべきではない。いま、こうした基本的見解に立つて、本件各懲戒処分の適否について判断するのに、

(1)  本件無期停学処分が東京教育大学のいわゆる筑波移転問題について理学部学生自治会の実施した教官排除の一斉授業放棄は学則五八条所定の学生の本分に違背する行為に該当するものとして行なわれたこと、そして、右学則五八条には「学生がその本分に背いた行為をした時は、懲戒処分に処する。懲戒処分は、戒告、停学の三種とする。」と規定されていることは、当事者間に争いがない。

(イ) よつて、第一に、一斉授業放棄がなされるにいたつた動機とその目的についてみるのに、原告は、いわゆる筑波移転問題が執行部を中心とする一部強硬派の教官らの策謀のもとに、いわゆる「朝永原則」を踏みにじつた非民主的な方法により、しかも、大学全構成員の圧倒的多数の反対を押し切り、既成事実を積み重ねていつて、強引に移転と決定されたことに対して抗議するとともに、新大学の基本とする管理運営体制を粉砕して、学生の真摯な意見を右の審議に反映せしめることを求めて、教官排除の一斉授業放棄を実施したものである、と主張する。しかし、もともと、東京教育大学のごとき国立大学移転の問題は、当該大学の存立にかかわるばかりでなく、直接大学構成員の研究・教育・生活条件等に重大な影響を与えるものであることは、否定し得ないところではあるが、本来的には、移転の場所および移転の時期をも含めて、当該大学のみで自主的に決定する管理運営の域を超えた、国家の文教政策に基づくしかも財政支出を伴う政治問題に属するものであるというべきである。そればかりでなく、成立に争いのない甲第三三・第三四号証の各二、証人藤崎三雄、綿貫芳源および家永三郎の各証言(但し証人家永三郎の証言中後記措信しない部分を除く。)によれば、いわゆる「朝永原則」は、東京教育大学の教授会と評議会との関係について、「原則的には各教授会の自主性をできるだけ大幅なものとすることが望ましい。統一体としての大学の運営上必要であると認められる事項に限つて、評議会に独立の決定権を与えるべきであり、その場合にも評議会は各教授会の意見を尊重し、その間の調整をはかりつつ決定すべきものである。それと共に評議会は、本来各教授会毎の意見決定に委ねるべきものであるが、しかもなるべく各学部、研究所が同一歩調であることが望ましいと考えられる事項については、学部研究所間の意思調整機関としての機能を持つべきものである。」としているが、これは、当時の朝永学長が国立大学協会等の求めに応じて同大学の管理運営制度について報告するため、別に設けられた「大学制度研究委員会」において一年有余にわたる研究討議の結果をまとめたものであり、まだ一、二の学部教授会において十分な検討を経てはいなかつたが、昭和三七年六月二一日の評議会で、「なお、教授会、評議会の自治的決定をして誤りなきを期するための方法については、大学自治の精神にもとづく規則の方途に関し、今後さらに考慮する必要がある。」との条件を付けて、学長が右の線により国立大学協会等において発言することは、全員異議なくそれを承認した。ところが、その発表をみない間に、各学部教授会において慎重審議を重ね、その結論を同年八月二七日の評議会に報告し、同日の評議会決定となつたのが、「大学の管理運営制度について」であつて、それが翌二八日三輪知雄学長名義で国立大学協会、日本学術会議等に報告された。そして、これによれば、各部局限りの事項については教授会が、大学全般にわたる事項については評議会が、これを決定することとなつていることを認めることができ、右認定と牴触する証人家永三郎の証言はにわかに措信し難く、他に右認定を左右するに足る証拠はない。したがつて、「朝永原則」なるものは、東京教育大学の管理運営の基本方針として成立したものではないので、その違反をいう原告の主張は、当らず、むしろ、筑波移転問題のごとき大学全般にわたる事項の審議決定機関は、学長・学部長・各学部選出の二名の教授・研究所長で構成される評議会であるといわなければならない。

また、審議の概要についても、成立に争いのない甲第一四五号証の四、五、甲第一四七号証、甲第一七二号証、乙第三四号証の一、二、乙第八三号証、乙第八七号証、乙第八九号証、乙第九〇号証、乙第九四号証および証人佐藤静夫、家永三郎の各証言によれば、東京教育大学は、昭和三八年五月三一日、文部省より、分散している文、教、理、農、体の五学部と光学研究所とを統合し、総合大学としての拡充発展を図りたい旨の大学側の方針にそつた候補地として示され筑波研究学園都市への移転計画について審議を進めてゆくために、評議会の議決に基づき、各学部から選出された委員をもつて構成する「大学移転問題特別委員会」(昭和三九年七月以降は、「大学の将来計画委員会」(以下「全将計」という。)を設置し、これに移転の可否と大学の将来計画の検討を依嘱し、「全将計」は、評議会に対し、昭和三九年一一月二四日と昭和四〇年七月二日の二回にわたり、審議経過の報告という形式で、各様の意見をそのまま答申し、右昭和四〇年七月二日の評議会において、三輪知雄学長から筑波移転を想定した場合における大学側の条件を文部省が受けいれるかどうかを打診する旨の提案があり、文学部評議員は、総退場したが、同議案は、そのまま可決され、該決定に基づき学長は、同年一一月四日文部省に質問書と題する書面を提出し、昭和四一年三月一〇日文部省から右条件を受けいれる旨の回答があつた。その間、「全将計」においては、各部局間の意見の調整に努めてきたが、各部局にはそれぞれ学問研究上の特殊事情があり、また、同一学部の中においても学科の性質が異なるところから、統一的見解を得ることは至難であるとの判断に達し、その旨を同年一〇月二八日の評議会に答申し、その席上学長より文学部の強硬な移転反対の態度を非難する旨の発言があつたところから、和歌森文学部長の辞任、文学部教授会の抗議声明、学長の遺憾の意の表明等の紛議はあつたが、昭和四二年二月一〇日の「全将計」においては、ともかくも、「本学が総合大学として発展することを期し、大塚を保有しながら、筑波を本学発展の候補地として検討する。各部局の自主性を尊重し、前記両地区における発展には全学をあげて協力する。」という共通理解に達した。しかし、全学一致の統一的見解は、遂に得られず、かくしているうちにも、筑波研究学園都市建設計画の進展に伴い、東京教育大学は、筑波に土地を希望するかどうかの態度を決定しなければならない事態においこまれたところから、同年五月二九日の評議会では、「総合大学としての発展を期し、研究教育上の全学的利用のために大塚地区を保有して、条件付で筑波に土地を希望する。」との文学部を除く五部局の共通調整案と、文学部の「筑波に土地確保を希望せず、『将来にわたり』現有地において正常な発展を期する。」との提案と「これをもつて結論とせず、なお民主的な手続きにより統一的見解を得るような努力すること。」との要望事項を併記したものを評議会案とすることに決定し、同年六月一〇日の評議会は、右案を可決し、同時に、「本評議会案は、学長が口頭で申し述べる際のメモであつて、文書として当局に渡すものではない。また、大塚地区の保有は、全学の基本条件の一つとして当然強く申し入れる」ことを申し合せ、そのことを評議会議事録にとどめ、その後、文学部より「本学は、学長の意向表明にさきだち、移転に関する諸条件の打診につとめ、その回答を得て、それについて、かさねて審議する必要があると判断しますので、その御猶予をおあたえいただきたく存じます。その猶予を認めることなく意思表明をなさいます場合は、本教授会として土地確保に協力いたしかねます。」との申し入れがあつたが、学長は、筑波移転問題については、すでに四年有余の歳月を費して審議を重ね、諸般の情勢からこれ以上の遷延は許されないものと判断し、同月一九日教・理・農各学部長、体育学部および光学研究所の代表教官らとともに、剣木文部大臣と会見し、土地希望の意向を表明するとともに、移転に関する諸条件の打診を行なつた。ところが、文学部教授会は、同月二一日右学長の意向の表明に対し、「本学全体の意向を代弁したものと認めることができない。従つて、文学部は、評議会ならびに学長がとつたこの度の措置に強く抗議し、その取消しを要求する。この要求が容れられない限り、文学部が筑波に移転しないことは勿論のこと、文学部は本学の筑波移転にあくまで反対し、この問題に関する一切の協力を拒否することをここに表明する。」との抗議声明を発表し、爾来、評議会の審議参加拒否の態度をとるに至つたこと、同年七月一三日学長は、評議会の申し合せに従い、文部省に対し、「東京教育大学は、総合大学として発展することを期し、左記の条件付で筑波に土地を希望する。

1、人文、社会、自然にわたり均整のとれた、国際的に優秀な大学として位置づけされる規模、内容の総合大学であること。

2、大塚地区を研究、教育上の全学的利用のため保有すること。

3、教職員、学生の生活条件、交通条件および教職員子弟の教育条件等をじゆうぶん配慮されること。

4、移転過程において、現地にとどまる間は講座、施設の拡充発展についてもじゆうぶん配慮されること。

5、教職員の待遇について地域的格差の生じないよう措置されること。

6、附属学校のあり方については本学において別途方針を確立する所存であるが、その措置についてもじゆうぶん配慮されること。ただし、移転の最終決定は、諸般の条件が満たされることを確かめたのちに、本学の自主性において行なうものであること。」との文書をもつて、土地希望の意思表示を行ない、同月二六日評議会の決定で、「全将計」を解散し、文学部評議員を除く五部局評議員の審議によつて「マスタープラン委員会」が設置された。その後、マスタープランの作成や現地調査のために移転調査費を必要とするにいたり、昭和四三年六月二〇日評議会がその費用の計上方について審議した際、文学部評議員は、「文学部は移転に反対であつて、マスタープラン委員会も認めていない。文学部が大塚に留まれる保証のない段階で調査費を要求することは、文学部もいつか筑波に移転させられることになる。したがつて、ぜひ調査費を要求しないようにしてほしい。」という強い発言をして退席したが、評議会は、審議の結果、移転調査費の計上を承認し、文案のとりまとめについては、マスタープラン委員会の了解を得ることとなり、同年八月二〇日同委員会全員の了承を得たうえで、移転調査費の要求を最終的に決定し、同月二八日文部省にその要求書を提出したことが認められ、右認定を覆えすに足る的確な証拠はない。また、筑波新大学の構想における管理運営制度が大学の自治を大幅に制限して政府や財界の要請に即応する強力な体制を創り上げることを狙いとするものであることについては、これを認めるに足る的確な証拠はない。しかして、右認定の諸事実とその審議の経緯等に徴すれば、原告の前記主張事実は、そのすべてが当つているものとは、到底、認め得ない。

なお、原告は、理学部教授会の背信的行為を主張するが、成立に争いのない乙第三三号証の二、乙第九四号証、第三者の作成にかかり真正に成立したものと認める甲第五号証、証人小西勇雄の証言、原告本人尋問の結果(但し、後に記載する措信しない部分を除く。)によれば、理学部学生自治会が昭和四三年七月五日単純な一斉授業放棄に入つた直後、小西学生委員長が原告らに誓約したのは、学生側から教授会が移転調査費計上の評議会決定を承認する前に学生側の意見をきいてもらいたいとの要望があつたので、教授会に対して学生の意向を伝えてその実現方に努力するという趣旨のことであつて、原告主張のごとき「学生との話合いをしないで、教授会が重要な決定をするようなことはしない。」ということではなく、現に、同月九日学生の意見を聴くための会合が開かれ、また、翌一〇日および同年八月一七日の教授会においても、学生側の要望が紹介されて審議されていること、しかるに、右八月一七日の理学部教授会が移転調査費計上の評議会決定を承認するに至つたのは、もともと、移転調査費計上に関する事項が前叙のごとく教授会の議決事項ではなくして単なる教授会に対する報告事項にすぎないことと、当時大学当局においてすでに移転調査費を翌年度の予算要求に繰り入れることとしていたことによるものであることが認められ、右認定に反する証人中村正博の証言および原告本人の供述部分は、にわかに措信し難く、却つて、前掲証人小西勇雄の証言および原告本人尋問の結果によれば、右理学部教授会の移転調査費計上決定の承認後、小西学生委員長は、理学部長の命を受け、移転調査費計上決定承認の経緯、右費用計上の意義等を説明すべく学生自治会との話合いの場をもつため、原告ら常任委員会委員と再三折衝しても、容易にその実現の運びに至らなかつたが、同年九月二〇日「理学部教職員、院生、学生懇談会」が開催されることとなり、その三日前小西学生委員長が原告らと会い、予め右懇談会のもちかたについて協議し、学生側の要求でマスター・プラン委員会に関する事項をも質疑事項に加えることとした。しかるに、当日の集会は、附属小学校講堂において午前一一時ころから開始されたが、右費用の計上やマスタープランの事情に詳しい教官らの発言は事実上封じられて、ほとんど、原告の移転調査費計上決定の承認が夏休み中に行なわれたことに対する抗議に終始し、議題の大半が取り上げられないままで、予定の時間を三〇分以上も超過してしまつた。そこで、小西学生委員長から数日中に同旨の集会を開いて話合いを続けるため教授会側に働きかけるよう努力する旨の発言があり、学生側もそれを了承して、右懇談会が終了したことを認めることができ、右認定に反する原告本人の供述部分は、にわかに措信し難く、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

ところが、同日午後三時三〇分開かれた理学部学生大会において、「(イ)移転審議を白紙に戻し、土地確保決定、移転意向の表明、移転調査費計上決定を撤廃すること、(ロ)マスタープラン委員会の審議内容を公開し、同委員会を即時解散すること、(ハ)事態の紛糾をもたらした評議会、理学部教授会、同学生委員会は、自己批判を行ない、その責任者は、辞職すること、(ニ)学生を含む学内全階層の参加する大学の民主的管理運営制度を確立すること、(ホ)大学側は、政府の大学への干渉に反対する意思を表明すること、(ヘ)すみやかに全学集会、学部集会を開催して、右の諸点を確認すること」との六項目にわたる要求事項を掲げて、教官排除の一斉授業放棄を決議し、翌二一日からそれが実行されるに至つたことは、当事者間に争いがない。

(ロ) 第二に、教官排除の一斉授業放棄の実態についてみるのに、証人兼被告理学部長印東弘玄本人の供述によつて真正に成立したものと認める乙第一号証の二および右小西、印東の各供述によれば、W館(W一号館およびW二号館を指す。以下同じ。)の正面玄関を除いた他の出入口を閉鎖し、正面玄関では観音開きの扉の片方を閉じ、他方を半開きにしてその前後に机や椅子を山積みにし、針金で厳重に結び付け、その中央にトンネル状の頭をさげて一人がやつと通り抜けられる程度の間隙を残したバリケードを構築し、午前八時ころから午後五時ころまで常時二、三名ないし数名の学生を配置し、教授会構成員(教授、助教授)が近づくと、これらの学生がその前方に立ち塞がつて入館を阻止し、敢えて入館しようとすれば、多数で押し返えす構えをみせ、混乱、暴行等が予想されて事実上入館は不可能の状態であつたことを認めることができ、これと牴触する証人藤田至則の証言はたやすく措信し難く、他に右認定を覆えすに足りる的確な証拠はない。そして、証人小西勇雄の証言および原告本人尋問の結果(但し、後に記載する措信しない部分を除く。)によれば、右教官排除の一斉授業放棄の実施により、

(a) 昭和四三年九月二四日小西学生委員長が補導連絡協議会を開催するため、予め自治会側の了承を得てW館内にいたところ、原告から退去を要求され、紛議を起すことを恐れて、やむなくこれに従い、会場を他に移さざるを得なかつた。

(b) 同月二八日杉山教授がW館内の研究室において学生の就職の推せん状を作成していたところ、学生から退去を要求され、さらに、同研究室の入口の扉の外側に机を積み上げて出られないようにし、同教授は、窓から救援を求め、約二時間にわたつて、同所に閉じ込められた。

(c) 同年一〇月九日小西学生委員長が理学部学生委員会をW館内で開くため同館の会議室にいたところ、原告から退去を要求され、やむなく附属中学校へ会場を移したが、その後教育学部の事件のことで補導課へ連絡するため再びW館に入り、三〇一号室で電話をかけていたところへ原告が来て、学生大会の決定があるので館外へ出るよう重ねて要求した。

(d) 同年一一月二六日評議員と五学部学生代表との話合いをもつことについて、いわゆる民青系の学生といわゆる三派系の学生とによつて投石を交えた守衛所の争奪戦が演じられ、深夜教官の緊急招集があり、橋本教授は、翌二七日午前一時ころW館内に入り、早朝見回りのため一旦外に出て再び入館しようとしたところ、原告は、「これが落選理学部長の橋本だよ。入れるな。」といつて入館を阻止した。

(e) また同日朝八時ころW館内で学生のリンチ事件があるとの報を受けた小西学生委員長は、職責上入館しようとしたころ、原告の指示を受けた学生によつて入館を阻止された

ことを認めることができ、右認定に牴触する原告本人の供述部分は、にわかに措信し難く、他に右認定を覆えすに足る的確な証拠はない。したがつて、理学部学生自治会の行なつた教官排除の一斉授業放棄は、それ自体直接大学の正常な機能を麻痺せしめることを目的とする施設の封鎖や占拠等とはいえないにしても、単純な授業放棄以上の抗議行動であつたことは、疑いを容れないところである。

(ハ) 第三に、右に対する理学部教授会又は大学当局側の態度、事情等についてみるのに、前掲甲第五号証、成立に争いのない甲第一四二号証、第一四五号証の三、証人井原恵治の証言により真正に成立したものと認める甲第一六九号証、証人藤田至則、中村正博、小西勇雄の各証言および原告本人尋問の結果(但し、証人中村正博、原告本人の各供述中後に記載する措信しない部分を除く。)によれば、理学部教授会側は、学生との話合いの場をもつべきかどうかの問題を主として、教官排除の一斉授業放棄の対策を頻繁に協議し、会議の場所は、学生自治会によるW館入館阻止の態勢が敷かれているため学内を避けて他にこれを求めざるを得なかつたが、

(a) 昭和四三年一〇月一日午後五時すぎころより附属中学校の三階図書室において教授会を開き、学生側の要求事項について審議をはじめていたところ、原告の率いる理学部学生約三、四十名が学部集会開催の確約を取り付ける目的で、その場に押しかけ、当時すでに教、農各学部学生らによる評議員らの軟禁暴行事件が発生していたところから、学生が大挙して押しかけ土足のままで三階に向かつた旨の報を受けた学部長は、直ちに教授会の閉会を宣し、評議員らとともに、隣接の司書室に退避し、応対に出た小西学生委員長が、学部長に会わせろという学生側の要求に対し、学部長はいるともいないとも言えないが、ともかく会わせることはできない、しかし、学部集会については、その機会をつくるよう努力する旨を告げて、静かに引き揚げることを一時間以上にわたつて説得し、教室主任がそのことを確約すれば帰るということになつたが、出てきた教室主任の一人が、「学部長はもう帰つた。」といい、すぐその後で、「会議室にはいない。」と言い直したところから、建物の構造上帰宅できないことをはじめから察知していた学生らは、「学部長は化物か。」、「こんなところからどうして帰れる。」などと種々難詰し、結局、了解を得て確認のため中に入つた学生らによつて司書室に電燈を消して学部長と評議員らの潜んでいるところを発見され、学生側の憤激をかう始末となつた。また、そうこうしているうちに、十五、六名の教官は、「こんなところで待機している必要はないから帰ろう。」といつて室から出ようとしたところ、多数の学生によつて押し戻され、その後は、用便にも監視員がつくといつた有様で、教官らは、その場に釘付けにされた状態であつたが、学部長が学生らと会い、その要求を教授側にはかり、異論がなかつたところから、「一〇月四日までに学生と話合いの場をもつため明日か明後日の教授会で正式に決定するよう努力する。」旨を学生側に伝え、ようやく散会するに至つた。

(b) しかし、翌々日の三日天風会館で開かれた教授会では、審議の結果、学生側が圧力によつて自分達の意見を押し通そうとする態度をとつている現状では、学生との話合いは「時期をみて聞くよりほかはない。」ということとなつた。

(c) また、同年一一月一三日天風会館で教授会を開催していたところへ数名の学生が押しかけ、応対に当つた学生委員七、八名の教官は、学生から自治会常任委員会の要請書の趣旨を右教授会において一〇分間だけ説明することを認めてほしいとの要請を受け、これを教授会に出席中の小西学生委員長に連絡したところ、同委員長より「大丈夫だ。しばらく待て。」との指示があつたので、教授会が学生側の右要請を承諾したものと判断して、その旨学生側にも伝え、しばらく待つように話合いをしているうちに、教授会は、解散してしまい、後に学生委員らは、総辞職をするに至つたこと、

他方、評議会においても、紛争収拾の対策が慎重に審議されていたとはいえ、紛争の焦点たる筑波移転問題そのものにつき前叙のごとく文学部と他部局との意見の対立が遂に調整できなかつたばかりでなく、解決策の一つとして考えられた全学集会についても、これを開いても学生の派閥抗争により不測の事故が発生するおそれがあつて却つて紛争の解決にはならぬという消極論と、積極論のうちにも、土地確保の評議会決定を白紙に戻して学生側とも協議して移転の可否を決定すべきであるとする見解と、土地確保の評議会決定は絶対に維持すべきであるとする見解および全学集会では学生との取極めをすべきでなく全学集会はあくまでも話合いによる相互理解を深める場にとどめるべきであるとする見解とに分かれ、さらに、集会の形式、規模についても、全学集会案と全評議員および五学部学生代表の討論会案とがあり、理学部教授会は、相互理解を深める話合いの場としての全学集会を可及的速かにもつため予備交渉を開くべきであるとの態度を同年一一月五日決定し、同月二九日の評議会にその旨の提案を行ない、また、理学部の学生も、同年一二月九日の大会で学生代表を選出したが、全学集会は、その交渉段階において、前記各学部教授会の対立意見の調整がつかず、集会に臨む大学当局側の態度がきまらなかつたことと、文学部の学生が派閥抗争のため代表の選出をすることができなかつたことにより、遂に、実現の運びにいたらなかつたことを認めることができ、右認定に反する証人中村正博および原告本人の各供述部分は、前掲各証拠に対比してにわかに措信し難く、他に右認定を左右するに足る的確な証拠はない。

かくして、紛争解決のめどがつかず、授業の再開もできないままで一二月下旬に入り、入試が実施できない状態を迎えるに至つたので、大学当局は、同月二三日から二九日までの間前後四回にわたり文部省と協議を重ねたが、体育学部を除く他の四学部の入試は、中止のやむなきものと決定され、当時の三輪光雄学長と各学部長、評議員らは、その責任をとつて辞任し、その後、被告学長(但し当時は学長事務取扱い)は、評議会の教、農両学部の入試復活要請の決議に従い、文部省側と折衝したが、その要請も遂に容れられず、ここに入試中止という異常事態に直面するに至つた。そればかりでなく、いわゆる文自闘による本館封鎖、理学部学生自治会によるW館の入館阻止等がこれ以上続くと、卒業生を出すことができなくなり、三年生以下の授業も大幅に遅れているため、入試中止を繰り返えすことも懸念され、さらに、四三年度の決算、四四年度の予算等の事務処理ができず、大学の機能が事実上全く停廃するおそれが生ずることとなつた。そこで、被告学長は、昭和四四年二月二七日、学生から提示されていた筑波移転問題に関する前記土地確保の評議会決定に対する疑問について、その経緯と大学当局側の見解を明らかにし、学生の理解を求めるとともに、入試中止のやむなきにいたつた大学の危機を訴え、教職員、学先が一丸となつてその危機を乗り超えるための努力を要請する旨の所信表明を行ない、学生に対して本館封鎖の解除等学内秩序の正常化を強く呼びかけた。しかし、その実効が得られなかつたばかりでなく、これを契機とし構内において過激なデモや不穏な集会の行なわれることを聞知するに及び、被告学長は、学生同士の乱闘、建物破壊等の突発的事故の発生を避ける緊急の必要があるものと判断して、翌二八日早朝大塚構内に機動隊出動を要請し、その手によつて封鎖等を解除し、続いて、各部局に分掌させていた建物管理権を掌握し、学内秩序を維持して授業の遅れを取り戻すために入構制限を実施するに至つた。これらのことは、成立に争いのない乙第七三号証の一ないし三、証人兼被告理学部長印東弘玄の供述によつて真正に成立したものと認める乙第一一七号証、証人井原恵治の証言によつて真正に成立したものと認める甲第一六九号証、証人大島清、井原恵治の各証言および右印東弘玄の供述によつてこれを認めるに十分である。

(ニ) しかして、以上認定の諸事実を総合して判断するのに、東京教育大学の筑波移転の問題が原告主張のごとく、執行部を中心とする一部強硬派の教官らの策謀のもとに、「朝永原則」を踏みにじつた非民主的な方法により、しかも、大学全構成員の圧倒的多数の反対を押し切り、既成事実を積み重ねていつて強引に移転と決定され、また、新大学の基本とする管理運営制度が大学の自治を大幅に制限して政府や財界の要請に即応する強力な体制を創り上げることを狙いとするものであるとは、到底、認め難い。しかし、仮りに、原告主張のごとく、理学部学生自治会の教官排除の一斉授業放棄は、筑波移転問題の審議が非民主的に行なわれたことに抗議し、学生の真撃な意見を右の審理に反映せしめんとする動機、目的から実施されるに至つたとしても、「朝永原則」の存否ないしは解釈については、必らずしも、学内に統一的見解があつたわけではなく、また、昭和四二年六月二日評議会の土地確保の決定を契機として、教授会の間においても、五部局と文学部との意見の対立が表面化し、これが今次紛争の根源となつていることに徴すれば、そのこと自体は、強く非難するに価いするものとはいえないであろう。そしてまた、右教官排除の一斉授業放棄の実施に際して行なわれた前記認定に係る教授会構成員に対するW館入館阻止の個個具体的な行動も、もとより原告主張のごとく適法な行為と認めることはできないが、ただそれだけを取り上げてみた場合には、違法性がそれほど強いものとは思われない。しかしながら、もともと、教官排除の一斉授業放棄は、その実態が前段認定のごときものであつてみれば、現行法上は容認されていない抗議行動であつて、それにより学生自らも含む大学の研究教育機能の主要部分を停止せしめることを目指すものであり、重大な結果を招来することのあるのは十分予想されうるところであるから、これを計画立案し又は実行、継続する者は、いかに紛争状態にあつたとはいえ、責任の重大性に鑑み、軽々に一方的な見解や自己の認識のみに基づくことなく、当該学部の教授会ないしは大学当局の見解を十分聞くのはもとより、その実施により回復困難な重大な事態の発生することのないよう万全の配慮をなすべきことは、当然であるといわなければならない。しかも、昭和四三年九月二〇日の「理学部教職員・院生・学生懇談会」においてはその機会が与えられ、なお、同旨の会合をもつことが約束されていたにもかかわらず、原告を含む理学部学生自治会幹部は、学生らの問題としている点についての教授会側の見解を聞くことを敢えて拒否し、即日学生大会を開催して右の教官排除の一斉授業放棄が実施されるに至つたこと、また、その後も、学生の威力を背景とする行動のために、教授会側の真意が必ずしもそのまま通じなかつたとはいえ、教授会自身としても、その誠意において欠けるところがなかつたといえないにしても、ともかくも、教授会は、学生との話合いの場をもつべく前向きの姿勢で審議を重ねてきたし、さらに学生側の要請する全学集会が遂に実現の運びには到らなかつたが、評議会においても、その開催を目指して各教授会の対立意見の調整に努力してきたのである。しかるに、教官排除の一斉授業放棄は、そのまま継続され、昭和四四年二月二八日まで約五か月間の長きに及んだため、たとえ、その間、院生、助手を中心として各教室単位に行なわれる四年生の卒業研究や院生の卒業、入試は、例年どおり実施されたにしても、理学部教授会構成員(教授、助教授)による研究、授業等大学本来の機能は、全く麻痺し、遂に、入試中止という異常事態を招き、四年生の卒業さえ危ぶまれる状態に立ち至つたのである。したがつて、右教官排除の一斉授業放棄を計画、指導し、また、自らもその実行に当つた原告は、規律違反の責任を免かれないものというべきである。

されば、前叙のごとき事実関係のもとで、被告理学部長が前記認定に係る原告の所為を学則五八条にいう学生の本分に違背する行為に該当するものと認定し、懲戒処分のうち無期停学を選定して行なつた本件処分は、成立に争いのない甲第一四二号証、証人渡部景隆の証言によつて明らかなごとく、同処分に「本人が反省したと認められる場合には、教授会の議を経て処分を解除し、逆に、今後とも同一の違法行為を繰り返す場合には、放学処分にする。」との条件の付せられていることをも勘案すれば、被告らの挙示するその余の具体的処分事由の有無の認定をまつまでもなく、被告学部長に与えられた裁量権の範囲を逸脱し又はこれを濫用した当然無効のものとは、到底、認め難い。

(2)  さらに、本件放学処分の適否についてみるのに、およそ、停学処分は、学生の地位を停止する懲戒処分であるから、これにより被処分者は、授業を受け得ないのはもとより、当然には学内に立ち入る権利をも有しないものと解すべきであり、しかも、前項認定のごとく昭和四四年二月二八日以降東京教育大学においては入構制限が敷かれていたにもかかわらず、原告が本件無期停学処分中しばしば同大学の大塚キヤンパスに無届入構したことは、原告の明らかに争わないところであり、また、証人渡部景隆の証言により真正に成立したものと認める乙第一二号証の一、乙第一二九号証の三、証人渡部景隆の証言および原告本人尋問の結果(但し、後に記載する措信しない部分を除く。)および証人兼被告理学部長印東弘玄本人の供述によれば、次の事実を認めることができる。すなわち、原告は、無期停学処分中学級主任大森助教授および教室主任須藤教授の補導に付せられていたにもかかわらず、たび重なる補導教官の呼出しに応じなかつたばかりでなく、ようやく学内秩序が正常化せんとしている時期であるにもかかわらず、

(a) 昭和四四年五月三〇日農学部の駒場構内における「理・農決起連帯集会」なる無届集会に参加し、

(b) 同年七月一日大塚構内において開催された「第二回全学教育大集会」と称する大学立法研究集会に参加した後、四、五百名のデモの先達となり、ハンドマイクを使用してシユプレヒコールを繰り返えし、

(c) 同年九月W館内の会議室において理学部教授会が開催されていたところへ、二、三十名の学生を率いて右会議室前の廊下に坐り込み、渡部学生委員長の制止を無視して、当日教授会の議題となつていた筑波新大学のビジヨンを非難する趣旨の演説、シユプレヒコールを繰り返えし、教授会の審議を著しく妨害し、

(d) 同年九月一日他の大学の学生を連れて、検問中の教職員約一〇名に対し、いろいろないやがらせを言い、

(e) 同年一〇月一五日、それより前大学当局に対し原告から理学部自治会委員長代行の資格で提出していた学生大会開催のための教室使用許可願いが、原告は自治会規約に基づく正当な資格者とは認められないという理由で拒否されたところから、東京大学農学部自治会員らの手引きにより、同大学農学部に赴き、同大学当局の制止にもかかわらず、無断で構内に立ち入り、かつ、同大学農学部長の二回にわたる集会中止・解散命令をも無視して、「東京教育大学理学部学生大会」と称する集会を開催、続行し、同大学に対して多大の迷惑をかけたばかりでなく、東京教育大学としても、書面で陳謝の意を表明し、その体面を著しく傷つけられた。

こうした事情があつたので、理学部教授会は、原告には反省の色が認められず、原告の以上のごとき行為が前期無期停学処分の際における教授会の申合せの条件に該当するものであると判断し、また、補導教官からも、同月一八日はじめて原告に会うことができたが、原告は、その非を認めていないばかりでなく、補導のため入構させるべく趣意書と誓約書をとり、同月二〇日理学部長までの入構申請手続をすませたのに、翌二一日には大塚構内で開かれた無届集会にリーダー格で参加し、大森補導教官が補導のため原告に会おうとしてその場に出向いたがいち早く姿をくらましてしまつたとの報告と、これ以上補導の責任はもてない旨の申入れがあつたので、教授会は、同月二二日原告を放学処分に付することを決定して、その執行の時期を学部長に一任し、学部長は原告が反省して学業に専念する決意を表明するのを期待して約一〇日間待つていたが、その期待も水泡に帰したので、同月三一日遂に処分の執行に踏み切り、被告学長によつて本件放学処分が行なわれるに至つたことを認めることができ、右認定に反する原告本人の供述部分は、前掲各証拠に照らしてにわかに措信し難く、また、前記補導教官の補導が原告主張のごとく原告の思想・表現の自由を不当に奪うことを目的とするものである点については、これを認めるに足る証拠はない。

しかして、以上認定の諸事実に徴すれば、いわゆる入構制限が原告主張のごとく違法の措置であるかどうかを審究するまでもなく、本件放学処分が被告学長に与えられた裁量権の範囲を逸脱し又はこれを濫用した違法のものであるとは、到底、認めることができない。

(三)  最後に、原告の手続違背の主張について判断する。

憲法三一条の保障する法定手続の規定がアメリカ憲法の影響のもとに設けられたことは、否定できないが、同条が刑事の手続のみならず、基本的人権にかかわる行政の手続にも適用ないし準用があるとしても、その法的土壌と立法の沿革を異にするわが国において、同条の規定する「法律の定める手続」の意味内容を、原告主張のごとく、アメリカ合衆国憲法修正第五条所定の「適法な手続」(デユー・プロセス)と同意義に理解して、事前の手続のみに限定することは、早計であるといわなければならない。また、事前手続の要請を、原告主張のごとく、自然的正義ないし条理であると観念することも、各特別法毎に個別的に事前手続の規定が設けられているにすぎず、一般的には、事後救済手続としての行政不服審査法によらしめることとし、事前手続としての行政手続法が制定されていないわが国の現状に照らし、にわかに首肯し難いところである。むしろ、わが国の現行法体系のもとにあつては、当該行政処分が単に基本的人権にかかわるものであるということだけで、直ちに、事前手続の履践が処分の有効要件であると一律に解することは妥当でなく、各具体的事件における基本的人権の種類、行政処分の性格ないしはこれによる権利侵害の程度に応じて、事前手続の要否、処分の効力等を弾力的に理解するのが相当である。

いま、これを大学の学生に対する停学、放学等の懲戒処分についていえば、それが教育的見地から学内規律を維持するために行なわれる措置であることに鑑みれば、学則に特段の規定ないしは慣行の存する場合は格別、然らざる場合にあつては、学生を懲戒処分に付するに際し、いかなる内容、程度の事前手続を履践すべきかは、処分権の発動および処分の選定と同様に、教育の衝に当つている処分権者の判断に委ねられているのであつて、その違反は、裁量権の喩越又は濫用の問題として、司法審査に服するものというべきである。

ところで、成立に争いのない甲第三号証、甲第一四二号証、証人兼被告理学部長印東弘玄本人の供述により真正に成立したものと認める乙第二〇号証の二、証人渡部景隆の証言および原告本人尋問の結果および右印東弘玄の供述によれば、東京教育大学においては、学生を懲戒処分に付するにあたり、本人に対して告知、弁明の機会を与えるべき旨の学則ないし確立された慣行は、存在していないが、

(1)  本件無期停学処分に際しては、次のような手続のとられたことが認められる。すなわち、学生自治会の正副委員長から教官排除の一斉授業放棄の決定されるにいたつた経緯、右両名が実質的にも自治会の責任者として行動したものであるかどうか等を確認する目的で、いずれも、理学部長宮島龍興名義で「事情聴取のため」と記載した呼出状と題する書面により、昭和四四年三月二八日付で同月三一日午後零時三〇分までに理学部長室に出頭するよう通知し、また、翌二九日と翌々日の三〇日の二回にわたり浅香学生委員長から一五分ないし四〇分間にわたり電話で原告の母親に対し右呼出状の趣旨を説明し、本人にその旨を伝えて出頭するようすすめてくれることを依頼し、その承諾を得たこと、ところが、原告としては、当時すでに処分の噂を耳にしていたものの、自治会の常任委員会として断固処分に反対する態度を打ち出していた関係もあつて、右呼出しには容易に応じられないものと考え、当日、予め電話で渡部学生委員の了解を得たうえで、午後一時半ころ登校して、常任委員会の意見も織り込んだ「公開質問状」なる文書を同委員に提出したところ、すでに処分検討委員会は終了していたので、浅香、渡部両委員より、原告に対し、右文書に記載された質問事項につき、呼出状の趣旨は事情聴取であり、処分検討委員会は各教室から選出された教授によつて構成されていること等を説明し、次回四月三日午後一時から開かれる処分検討委員会への出頭を促がしたこと、四月三日も、原告は、長文の公開質問状の原稿をたずさえて、渡部学生委員に会い、同文書を教授会で検討してくれるよう要請し、同委員より浅香学生委員長の了承を得て教授会に提出できるよう努力するとの回答を得たので、約二時間かかつてこれを謄写し、渡部学生委員に渡してくれるよう事務員に依頼して帰宅し、教授会としては、学部長と処分検討委員会とで右文書を検討したうえで、必要と認めれば次回の教授会に提出することとし、同日内容証明郵便で原告に対し同月七日午前一一時に出頭すべき旨の呼出状を出したが、原告は、右「公開質問状」に対する回答がないことを理由に、遂に出頭に応じなかつたことを認めることができ、右認定に反する証拠はない。

なお、本件無期停学処分については、成立に争いのない甲第一四二号証、乙第一二〇号証の一、証人兼被告理学部長印東弘玄本人の供述により真正に成立したものと認める乙第一四号証、乙第二八号証、右印東弘玄の供述によれば、昭和四三年一二月三一日の理学部臨時教授会において取り上げられ、さらに、慣例に従い、教室主任会議の議により、各教室から選出された各一名の委員と評議員・学生委員長および正副委員長で構成される「教育処置検討委員会」が設けられ、同委員会が昭和四四年一月一七日以来七回にわたり審議を重ねた結果、同年三月一九日教授会に対し学生自治会正副委員長を懲戒処分に付すべき旨の答申をなし、教授会は、さらに、各教室より選出された教官一名・評議員および正副委員長合計一三名からなる「処分検討委員会」を設置して処分の種別、程度を検討することとし、福田教授が委員長となり、同委員会において同年四月一五日原告らを無期停学処分に付すべき旨の答申をなし、教授会が同月三〇日前叙のごとく本件無期停学処分を決定するにいたつたものであることを認めることができ、他に右認定の妨げとなる証拠はない。

原告は、本件無期停学処分が補導連絡協議会の承認を経ていないから無効であるように主張するが、東京教育大学において本件のごとき無期停学処分をするにつき補導連絡協議会の承認を得なければならないことになつていることを認めるに足る証拠はなく、却つて、大学の規則なるにより真正に成立したものと認める乙第二六号証の二および証人兼被告理学部長印東弘玄本人の供述によれば、東京教育大学補導連絡協議会規程九条には「この会において協議した事項中、決定を要するものは関係学部の承認を得なければならない。」と規定されていることが明らかである。

(2)  また、本件放学処分にあたり、原告に対して告知、弁明の機会が与えられなかつたことは、被告らにおいても認めて争わないところである。しかし、単にかかる一事をもつて本件放学処分を違法と断定し得ないことは、前段説示のとおりであり、また、前記認定のごとき本件放学処分の行なわれるに至つた経緯に徴し、本件放学処分が原告の全然予期し得ない事情のもとになされたものとは、到底認められない。

なお、成立に争いのない乙第一二九号証の三、証人渡部景隆の証言および前掲印東弘玄の供述によれば、本件放学処分は、「処分検討委員会」において昭和四四年一〇月一三日と二一日の二回にわたり前叙認定に係る原告の処分を検討した結果、原告には反省の色がなく、放学処分に付するを相当とするものと判断してその旨教授会に報告し、前叙のごとく、教授会の同旨の答申に基づき、被告学長によつてなされるに至つたものであることが認められ、右認定に牴触する証拠はない。

されば、本件各懲戒処分は、その手続の面においても、原告主張のごとき瑕疵はないものというべきである。

よつて、原告の本訴請求は、いずれも、その理由がないので、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき、行訴法七条、民訴法八九条の規定を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 渡部吉隆 園部逸夫 渡辺昭)

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